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心がすいて、食べていた

過食症の頃、私はこころの寂しさや虚しさを埋めるかのように
食べていた感覚がある。

経験した人ならわかる方も多いと思うのだけれど、
あれは単なる「食欲」ではなかった。
コントロールしようとしても、無理だった。

私の場合、「お腹がすいた」というよりも
仕事や人間関係などで
表現しきれず無理やり抑え込もうとした苛々や不安、
ネガティブな感情が沸き上り
「心がすいた」時にそれらはやってきて、
口の中から入り込み、やがて体の一部となってどんどん私に住み着いていった。

心が虚しくて食べたはずなのに、
体が拡張されていく一方、どんなに食べても、
心は満たされないままだった。

悩んでいた頃、本か何かで読んだエピソードだったか、
そこから私が着想を得た話だったか忘れてしまったけれど、
こういった話が印象に残っている。


「あなた」と「わたし」が
分かり合えなかった時、
つまり
寂しさや虚しさを感じた時でも、
「食べ物」という他者は
「わたし」と一体となることができる。
だから「食べる」という行為は「わかりあう」ことの擬似行為なのではないか。

「あなた」は特定の「誰か」ではなくて、
「社会」や「世界」と言い換えることもできる。

今でもこのエピソードは、妙に納得できて腑に落ちる話だ。
そして「食べること」は「わかりあう」擬似行為だけれど、
過食症は自分を傷つけていることでもあった。

わかりあいたいのに、自分を傷つけてしまう。
そんな自分がまた世界と馴染めず、どんどん分かり合えなくなっていた。
矛盾していたし、一体どうしてそこに至ったのか、よく覚えていない。

そんな迷路を抜けた今は、
パートナーとの生活の中で、
できるだけ自分の状況を伝えるようになった。
昔のように相手の顔色を伺いながら我慢したり、
本当は嫌なのにOKだとやり過ごすことをやめた。
無理やり周りに合わせるのではなく、自分と世界を調整しあうことが出来るようになった。

食べ物は私にとって悪魔ではなくなり、
からだと心を作り出すものになった。

もし昔の自分に出会ったら
「ネガティブであっても、感情を表現することは悪いことじゃないんだよ」
と伝えてみたい。

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