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舞台「出口なし」観劇

2018年9月22日 新国立劇場 小劇場
<作>ジャン=ポール・サルトル
<演出・上演台本>小川絵梨子
<出演>大竹しのぶ、段田安則、多部未華子、本多遼

<劇場>
初めて新国立劇場の小劇場で観る。小劇場は新国立劇場1階(もしかしたら地下?)楽屋口の隣に入り口があり本当にその名の通りこぢんまりとしている。どちらかというと他の劇場と比べて質素というか造りはシンプルだ。天井が高く2階にも1階座席を囲むように席がある。この広さであれば後方の席でも見やすそうだ。今回は前から4列目という前の方の席で鑑賞。かなり近い。俳優さんがものすごく近く見える。4列目でこの状態ってことは一番前はそれこそ汗も見える距離ではないか。(大好きな俳優だったら是非最前列で観たい!)
 どうでもいいが、「新国立」と入力して変換すると「申告率」と変換され るのをどうにかしたい。しん(新)と入力してそのあと(こくりつ)国立 と入力するしか方法がないようである。

舞台上にはソファが3脚とブロンズ像。舞台中央にはドアがあるだけ。主な登場人物は3人。イネス(大竹しのぶ)エステル(多部未華子)ガルサン(段田安則)この3人が地獄にやってきたという設定で話が始まる。地獄にありがち?な拷問のようなものはなくただ静かな空間があるだけの地獄。
この3人の会話だけで話が進んでゆき、音楽もありません。それぞれがどうしてここ(地獄)にやってきたのかその理由が3人の会話によって浮かび上がって来ます。そして、ドアは外側からしか開かず、ここからは出られない。まさに、出口なしの状態の3人である。

この部屋には鏡がない。鏡がなければ、自分の姿を見ることが出来ない。
自分という人間は自分の眼では見ることが出来ない。そう、自分は他人を介してしか知ることが出来ない、ということだろうか。誰かとの会話のやり取り、その反応によって浮かび上がってくる人間性。現在の状況に対しての反応で早々に互いの人となりが見えてくる。そして、もう二度とこの部屋から出ることはかなわない。なにしろ地獄だ。永遠にこの3人はこの場所で一緒にいなければならない。時々、3人にはいまも生きているそれぞれの自分の妻やダンナや恋人や同僚がいるのが見えるのだが、それもやがて見えなくなる。見えなくなる、ということは存在自体が忘れられてしまうということを暗示しているのだろうか。または時間の経過を表しているのだろうか。

正直に言ってこんなに感想書くのが難しい舞台も初めてです。
今までそんなにたくさん舞台観ていないですが、結局、なんだったのだ?という疑問が残っていて・・・私にはサルトルは難し過ぎました。
ただの観劇記録です。

観劇後に考えたこと
自分が死んで地獄に行ったとして拷問(身体的な)がないのは良いな。
でも、時間が永遠にあって終わりがないことってそれが一番の拷問かもしれない。この舞台のように、同じ人と永遠にいなければならないこと。それも拷問だ。自分の存在は他人を介してしか知ることが出来ない。私はあまり他人と関わるのが得意でないのもあってあまり自分のことがわかっていないのかもしれない。確かに一理ある。他人と関わることで自分の特性が見えて来たりする。自分はこうだけれど、他の人はこう思っている、見えているのか、そういう意見を聴くことで自分との違いを知ることはある。それが自分を知るということだろう。さらに、それによってどう自分に影響が及ぶかはわからないけれど。

そして、すべてのことには終わりがあるから美しいのだ。

自分のタイムリミットはいつなのかわからないけれど、終わりがあるから限りある時間を大切にしようと思える。
すべてはいつか無くなってしまうと思うから愛おしく思えるのだろう。
そんなことを考えた。

#舞台 #出口なし #新国立劇場 
#大竹しのぶ #段田安則 #多部未華子





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