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サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano):ミケランジェロとベルニーニの傑作が眠るカトリック教会の総本山

今回のnoteでは、2021年3月に撮影した写真をもとに、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の歴史、大聖堂前のサン・ピエトロ大聖堂広場、大聖堂の中の装飾や美術品について書いていく。

サン・ピエトロ大聖堂

(オベリスクを前に、正面から撮影したサン・ピエトロ大聖堂)


1. サン・ピエトロ大聖堂の歴史

1-1. 15世紀半ばからローマ劫掠(1527年)まで

サン・ピエトロ大聖堂の歴史は、4世紀にまで遡る。

老朽化していた大聖堂を前にした15世紀半ばの教皇ニコラウス5世(Nicholaus V;1397-1455;在位 1447-1455)は、大聖堂をバシリカ式に建て替えようとしていた。

その後、教皇アレクサンデル6世(Alessandro VI;1431-1503;在位 1492- 1503)が建て替え計画を具体的に進めようとした。

16世紀に入ると教皇ユリウス2世(Julius II;1443-1513;在位 1503-1513)がドナート・ブラマンテ(Donato Bramante;c. 1444-1514)を主任建築家に任命した。

こうして大聖堂建て替えは、1506年4月に着工し、ブラマンテの計画のもと工事が進んでいくかのように思われた。

ところが1514年4月にブラマンテが亡くなったことにより、工事は頓挫してしまった。

ブラマンテが取り組んでいた計画は、メディチ家出身教皇レオ10世(Leo X;1475-1521;在位 1513-1521)によって任命されたラファエロ・サンティ(Raffaello Sanzio;1483-1520)が引き継ぐことになった。

さらにそれぞれ1513年11月と14年1月に任命されていたフラ・ジョコンド・ダ・ヴェローナ(Fra 'Giocondo da Verona)とジュリアーノ・ダ・サンガロ(Giuliano da Sangallo)がその補佐についた。

しかしながらラファエロとこの2人の建築家も間も無くして亡くなってしまったため、計画はほとんど進まないままに終わった。

結局この時代に実現したのは、ブラマンテが設計した柱くらいであった。

教皇レオ10世の後にはハドリアヌス6世(Hadrianus VI;1459-1523;在位 1522-23)とメディチ家出身のクレメンス7世(Clemens VII; 1478-1534;在位 1523-34)が続いた。

ところが1527年、ハプスブルク家のカール5世がローマに攻め入り、街は壊滅的なダメージを受け、当然のことながら工事も頓挫してしまった(ローマ劫掠)。


1-2. ローマ劫掠後の建設再開とミケランジェロの功績

1534年、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(Paulus III;1468-1549;在位 1534-49)が就任すると、大聖堂の建築が再開されることとなった。

ラファエロの死後、主任建築家となっていたアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネ(Antonio da Sangallo il Giovane;1484-1546)(レオ10世の時代にラファエロの補佐についていたジュリアーノ・ダ・サンガロの甥)がこの時期の工事計画を進めた。 

ところが彼の計画は精巧であったもののあまりに複雑であったため、実際には大聖堂の床を3.2メートル高くした程度に終わった。

1546年にサンガッロが亡くなると、教皇パウルス3世はジュリオ・ロマーノを後任として任命しようとしたが、ジュリオもまた亡くなってしまう。

そこでミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni;1475-1564)が主任建築家に任命されることとなった。

着手されてからすでに40年以上経っていたサン・ピエトロ大聖堂建築事業。

依頼を受けたミケランジェロもまたこの時すでに71歳になっていた。

ミケランジェロは、当初のブラマンテの発想を元に、工事の規模を縮小しつつ、しかしながらより現実的に工程を進めていった。

ピエタ

(大聖堂内に設置されるミケランジェロ作のピエタ、後に詳述する)

ミケランジェロは、1564年に亡くなるまでに驚異的なスピードで大聖堂の基本となる部分を仕上げたのであった。

ミケランジェロの後任として、教皇ピウス4世(Pius IV;1499-1565;在位 1559-65)は、ヤコポ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ(Jacopo Barozzi da Vignola)を主任建築家に任命した。 

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(サン・ピエトロ大聖堂正面入り口から広場を見渡した様子)



1-3. ジャコモ・デッラ・ポルタのドーム、そしてベルニーニの活躍

ミケランジェロの死後20年以上経った1587年1月19日、ジャコモ・デッラ・ポルタ(Giacomo della Porta;1533-1602)は、アシスタントのドメニコ・フォンターナ(Domenico Fontana;1543-1607)と共に、教皇シクストゥス5世(Sixtus V;1520-90;在位 1585-90)からドームを完成させるようにという命を受けた。

ローマで都市計画を進めたシクストゥス5世のもとで、1588年12月22日から1590年5月14日にかけて、800人もの職人によって、ドームの工事は急ピッチで進められた。

またシクストゥス5世の死のわずか数日前、装飾が施された36本の柱も完成した。


17世紀に入ると、ボルゲーゼ美術館に関わったことでも有名な教皇パウルス5世(Paulus V;1552-1621;在位 1605-21)によって、これまで残されていた旧聖堂の一部の取り壊しが決定された。

1607年、パウルス5世は、ミケランジェロのプランに変更を加えたカルロ・マデルノ(Carlo Maderno)のプランを採用し、解体作業と新たな工事が進められた。

 1615年のパーム・サンデー(枝の主日)、新しい聖堂は、ほぼ完成した。

最初の15世紀半ばの計画から実に250年以上の時が流れていたが、内陣の青銅製大天蓋(バルダッキーノ)など豪奢な内装がなされるには、バロック期を代表する芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini; 1598-1680)の時代まで待たねばならない(第3章で後述)。




2. サン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)

2-1. ベルニーニによるサン・ピエトロ広場

早くサン・ピエトロ大聖堂の内装の話に移りたいところだが、まずは広場について説明をする。

サン・ピエトロ大聖堂5

サン・ピエトロ大聖堂6

もともと広場は、アクセスしにくい形となっていた上に、日光や雨風に晒される仕様となっており、セレモニーのためにも改善する必要があった。

キージ家出身の教皇アレクサンデル7世(Alexander VII;1599-1667;在位1655-67)に命じられたベルニーニは、1656年から67年にかけて、新たな広場の建築に取りかかった。

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(公式サイトより転載→

楕円形と台形が組み合わせられた広場は、訪れた信者を抱擁するような形となっている。

この広場を取り囲むのは、ドーリス式の円柱284本と88本の角柱であり、その上には3.1メートルの成人像140体が設置されている。

サン・ピエトロ大聖堂2

楕円中心部にある二つの噴水は、それぞれ1613年にカルノ・マデルノ、1677年にカルロ・フォンターナによって作成されたものである。

さらに広場の中心に高くそびえ立つのは、1586年にこの場所に設置された高さ25.31メートル(重さ330トン)のオベリスクである。

サン・ピエトロ大聖堂3

サン・ピエトロ大聖堂4



2-2. ファサード

サン・ピエトロ大聖堂のファサードの建設は、17世紀初頭にカルロ・マデルノによって着手され、その後、ベルニーニによって完成形へと近づいていった。

二階建てのファサードは、円柱や角柱によって支えられている。

屋上には、キリストや洗礼者ヨハネ、11人の使徒の像が立っている。

サン・ピエトロ大聖堂

大聖堂の入り口には5つの扉が設けられている。

サン・ピエトロ大聖堂1


また中央の扉の上の部分には、ベルニーニや他の芸術家たちが作成したレリーフ『私の羊を飼え』(1646)が設置されている。

サン・ピエトロ大聖堂




2-3. 2021年3月、待ち時間ゼロの風景

カトリックの総本山であると同時に、ローマの一大観光スポットでもあるサン・ピエトロ大聖堂には、本来ならば大勢の人がその姿を一目見ようと集まっている。

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ところが2021年3月に訪れたところ、人はほとんどおらず行列は全くできていなかった。

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イタリア中の都市がロックダウンするかどうか、その先行きが不安だった時期ということもあるが、このように行列レーンは閑散としている。

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ちなみにサン・ピエトロ大聖堂は無料で入場することができるが、クーポラに登るには別途料金が必要となってくる。

今回は史料調査の帰りに大聖堂に立ち寄り時間がなかったので、クーポラは次回登りたい。

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入り口に入り、スイスイ先に進む。

この先に手荷物チェックスペースがある。

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待ち時間ゼロのサン・ピエトロ大聖堂など、後にも先にもないことかもしれないと思いつつ、歩みを早めたのであった。



3. ミケランジェロによる『ピエタ』

ようやく大聖堂内部の説明に入る。

第三章ではミケランジェロの『ピエタ』、第四章ではベルニーニによる青銅製大天蓋(バルダッキーノ)中心に紹介していきたい。


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(入り口付近から撮影)

大聖堂内は、右側の側廊から反時計回りに一周するという順路となっている。

入ってすぐ、入り口手前の右側の側廊には、ミケランジェロ作の『ピエタ』が設置されている。

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ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建築に正式に携わったのは、晩年のことであったが、このピエタが完成した1499年、ミケランジェロは弱冠23歳の若者であった。

ピエタ2

(ピエタが設置される洗礼堂の天井)

芸術家としてのキャリアを積み上げる過渡期に制作されたにもかかわらず、この作品は、その才能を語るに十分な出来栄えである。

特にキリストを抱き抱えるマリアは若々しく、まるで永遠の命を吹き込まれたかのようである。

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側廊を進んでいくのだが、絢爛豪華な天井に目が奪われてしまいなかなか歩みが進まない。

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中央の身廊部分を撮影。

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つい天井ばかり撮ってしまったので写真がないのが残念であるが、右側の側廊には、サン・セバスティアーノ礼拝堂、そしてサクラメント(聖体)礼拝堂が続く。


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サクラメント礼拝堂は、1629年から1630年にかけて、フランチェスコ・ボッローミニ(Francesco Borromini)によって製作された鉄の柵で装飾されている。

その中には、1629年にウルバヌス8世に命じられ製作されたベルニーニ作の『チポーリオ』が設置されている(完成したのはその50年後のクレメンス10世の時代)。


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天井の見事なストゥッコ装飾、首が痛くなるのを忘れてつい見惚れてしまう。


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大聖堂の右側の側廊にある教皇たちの墓碑やドメキーノのモザイク画もあいにく撮影していなかったため、次の機会には忘れずにカメラに収めたい。




4. ベルニーニによる青銅製大天蓋(バルダッキーノ)

大聖堂の内陣には、青銅製大天蓋(バルダッキーノ)がそびえ立っている。

こちらは、1624年に教皇ウルバヌス8世(Urbanus VIII;1568-1644;在位 1623-44)によって命じられたジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計・制作したものである。

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迫力あるねじれ柱、この下には初代ローマ教皇・聖ペトロが眠るとされているが、その真偽については、繰り返し論争となっている。

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サン・ピエトロ


また内陣の右側には聖ペトロのブロンズ像があったのだが、今回は写真に収めていない。


また内陣の奥の後陣(アプス)を手掛けたのもベルニーニである。

サン・ピエトロ3

後陣には、聖ペトロの椅子のモニュメントがあり、聖アゴスティーノ、聖アンブロージョ、聖アタナシオスそして聖ヨハネス・クリュソストモスといった西方・東方の教会博士の7メートルのブロンズ像がこの椅子を支えている。

1655年、ベルニーニは、後陣の窓にも着手したほか、バロック様式の装飾を後陣に施した(1666年完成)。



また内陣のドームは、16のパーツに分かれており、その一つのパーツはさらに6のパーツに分かれている。

その一つ一つに聖人らが描かれているため、合計96人の人物がドームを彩っているのである。 

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 またドームの周りは、青と金の星模様で縁取られ、天使と聖人たちがその周りを囲む。

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(様々な角度から撮影)



青銅製大天蓋(バルダッキーノ)から見た身廊の様子だが、奥に写っている人のサイズ感を見ても分かるように、かなり奥行きがある壮大な造りである。


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内陣の青銅製大天蓋(バルダッキーノ)を折り返し地点として、左側の側廊を進みつつ、出口へ向かうという順路となっている。

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(内陣から見た左側の側廊)



左側の側廊には、レオ1世の墓碑やベルニーニ作のアレクサンデル7世の墓碑や聖歌隊の礼拝堂、宝物館(今回は入らず)などがある。

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またサン・ピエトロ大聖堂には、色鮮やかなモザイク画が何点も展示されている。

こちらはラファエロ作『キリストの変容』のレプリカ。

本物はヴァチカン美術館の絵画館に所蔵されている。

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(左側の側廊から右側の側廊を写した様子)



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写真の右端に見えるのは、アントニオ・カノーヴァ(Antonio Canova;1757-1822)作のスチュアート家の記念碑。

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こちらのモザイク画は、カルロ・マラッタ(Carlo Maratta;1625-1713)作の『キリストの洗礼』。

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左側の側廊から右側の側廊・天井を写した様子。

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最後に身廊の中央から内陣を眺めたが、バルダッキーノと至聖所がとても神々しく見える。


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身廊から左側の側廊を撮影した様子。

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サン・ピエトロ大聖堂の改築・建築に貢献したベルニーニが1680年に亡くなった時、大聖堂は、ほぼ現在に近い形となっていた。

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最初に老朽化したサン・ピエトロ大聖堂の改築が提案されたのは、15世紀半ばのこと。

完成までに230年近くの年月を要したことになる。

強力な政治力を持つ教皇と、実現可能な図面を作ることができる優秀な建築家、この二つ、両方揃って初めて大聖堂の工事を進めることができたのであった。



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膨大な量の写真になったわりには、後から見返してみると、撮影していなかったスポットが結構あったことに気づく。

今回、ミケランジェロの『ピエタ』とベルニーニの『青銅大天蓋』は、じっくり鑑賞することができたので、2回目以降は細部を観察し、また新たな発見をすることができたらと思っている。

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(バチカンの黄色のポスト)


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(大聖堂を背に撮影したコンチリアツィオーネ通り(Via della Conciliazione))



サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)

住所:Piazza San Pietro, 00120 Città del Vaticano, Vatican City

公式ホームページ:vatican.va

〜開館時間と入場料〜

・大聖堂:7:00-18:00(10月1日から3月31日まで)、7:00-19:00(4月1日から9月30日まで)、入場料無料

・クーポラ:7:30-17:00(10月1日から3月31日まで)、7:30-18:00(4月1日から9月30日まで)、入場料:10ユーロ(エレベーター、途中から320段分の階段)/ 8ユーロ(551段の階段)/ 5ユーロ(割引料金) 



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