最近、やめた(い)こと。
言葉。
大人になるにつれ、いろいろなことを知るにつれ、今まで自分がなんの気無しに使っていた言葉たちが予想以上に大きな意味を持っていたことに気づく。
化粧品が好きで、Twitterで人がおすすめしているコスメをこっそり見ている。目に映る、『ファンデ難民』という言葉。
私にも覚えがある。
「ジプシー*」
私も5〜6年前は平気で「わたしアイライナージプシーで」なんて使っていた。
ジプシーのリアルや歴史も知らないのに。
当時の恋人は英語圏の人で、私が拙い英語で「ジプシー」と発したのを聞き逃さなかったし、咎めた。日本語のニュアンスを英語に持ってきてはいけないな、なんて今なら見当違いも甚だしいことを当時は思っていた。
ノートルダムの鐘のエスメラルダくらいしか私の中にジプシーのリファレンスはなかったが、調べると1940年台にナチスから壮絶な迫害に遭い、20万から40万人のジプシーが殺害されたということを知った。
それを知ってなお、自分がちょっとしっくりくるコスメがないだけで「ジプシー」なんて言葉を使えるのだろうか。日本という国で移動居住という文化にも疎く、虐殺されない側の人間である私が。
「難民」
難民条約に批准しているはずなのに、この国は難民の命を守ろうとすらしない。署名活動もデモも、耳を塞いだ政府には届かない。
「自分の国、地域が安全でない」ことが、私たちにまるで想像ができないから?命からがら逃げてきて、入国した日本で非人道的な扱いを受けるのは本人たちにビザがないから仕方ないこと?在留資格がなければ基本的人権すら保障されないのか?
ファンデーションは別になくても生きていける。でも住むところや、自分の故郷、基本的人権がないとどうなるか、私は本当にわかってるのか?と自分に問う。経験に勝る想像はない。日本でぬくぬく生きている私にはきっと想像もできないような——軽く「辛いだろう」と口にするのさえ憚られるような——現実がそこにはある。
なので、やめることにした。
意味をうっすらと知っているのにもかかわらず、一人歩きする言葉たちを使ってしまうことを。
その言葉のもつニュアンスを確実に必要としているのに、現実は見ないふりして、好き勝手自分の表現に使うのは、もうやめよう。そう思った。
「ゲットー」
フォローしているアメリカ在住の人が、「ゲットー携帯だから繋がらない」、なんて言い回しをしたストーリーを上げていた。アメリカの貧困の再生産や、そこに住んでいる人々のことを少しでも思えば出ない言葉だろうと思った。日本人の移民が海外に住むとき、何かあれば自身は安心安全な日本に帰ってこれる。しかし、ゲットーに住まう人たちにはそんな場所などない。そして、元の意味はユダヤ人の居住地域という意味でもある。幾重にも重なる明らかにネガティブな意味を、当事者でもない人が茶化した言い回しで使ってしまう感覚に、背中がぞわりとした。
ファンデ難民って言っちゃうのも、ゲットー携帯って言っちゃうのも、アイライナージプシーも、リアルが分かってないから言う。難民のリアル、ゲットーのリアル、ジプシーのリアル。リアルを知ったら、ネガティブなニュアンスだけ借りてきて使おうなんて思えなくなる。
これは言葉狩りではない。言葉を本来の意味に戻してるだけ。
その渦中で生きていた人を、生きている人を、ネガティブな意味だけ掬い取って消さないため。
やめた(い)こと。としたのは、きっと自分の中にはまだまだ偏見があって、偏見や差別構造にまみれたこの世界で、自分がその再生産に加担していないとは言い切れなかったからだ。
日本語は柔軟性のある言語だと思う。造語もできる。代替可能な言葉を見つけるのは難しくないだろう。
本来の意味で難民を語り、本来の意味でゲットーの問題を見つめ、虐殺されたジプシーたちのことを知る。彼らのことを知り、考え、思いを馳せてみる。
何気なく使っている言葉の中で誰かを消費していないか、今一度自分に問いかけて、言葉を紡ぐ。
[難民、入管法に関して] 何が起きているか、こちらの記事がわかりやすいので置いておきます。
※こちらのnoteに関して収益が発生した場合、全額を日本の難民問題を支援する団体に寄付予定です。
みんな余裕のない中生きているので具体的な行動を取れる人は少ないと思います。私もそうです。でも、踏んでいる足を退けることはすぐ始められます。自分の中の偏見に、一個一個気づいていけますように。自戒を込めて。
*ジプシー…「ジプシー」は蔑称としての側面を持つため、現在では「ロマ」と呼ばれる。しかし、こうした移動が多民族すべての人々がロマ民族であるわけではない。勝手に外見や属性だけで相手のことを決めつける浅はかさがここでも問われている。
【追記】どの言葉で置き換えたとしても、総じてこの問題に見られるのは、「よそ者」であるというスティグマが強化されることだ。私自身「ハーフ」として生きてきたが、「ハーフ」も「外人」も自分に投げかけられる度、「お前は私たちとは違う人間なのだ」と突きつけられる言葉だった。言葉そのものとしての意味合いよりも、そこに潜む意味の方がきっと何倍にも私たちの心に突き刺さっているのだろう。