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「自分で考える」ということ

 今日は終戦記念日だ。日本が戦争に負けて75年が経とうとしている。実はヨーロッパでは、終戦記念日は5月8日である。それを初めて知った時、私は愕然とした。3か月前に終わっていたら、原爆も落ちなかったし、どれだけの人が命を落とさずに済んだだろうと思わずにはいられなかったからだ。

 このコロナ禍を戦時中と比較する考察が時々見られる。こういう感染症を抑えるには、独裁国家の方が都合がいい、という指摘は、すでに4月の段階で内田樹氏によってなされていた。その際、内田氏は民主主義というのは民の「成熟」を求める、というようなことを書いていたはずだ。独裁国家では、民が変に知恵をつけると面倒なので、何も知らずにいてくれた方が都合がいい。しかし愚かな人がトップに立った場合、悲惨なことになるので、それを見極められるよう、我々は賢くあらねばならないのだ。(言葉はこの通りではないが、要旨はこんな感じ。)

 私は、コロナ禍がくれたいいものが一つだけあるとすれば、「自分で考える」ことの重要性を改めて示してくれたことだと思う。声の大きい人、人当たりのいい人に騙されて、『ハンメルンの笛吹き』の物語のようについていってはならないのだ。このことが、今日の朝刊にも紹介されていた。(2020.8.15.付朝日新聞朝刊)

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 国家による統制ができれば、ウイルスの封じ込めには成功するかもしれない。しかし、戦争の教訓は「自由や人権を奪われるような時代に戻ってはならない」ということである。そうならないためには「自分で考え、判断し、社会の中での自分の責任を理解しながら、自分で道を決める」。これはまさに1948年から1953年まで発行されていた教科書『民主主義』でも説かれていたことだった。このことだけは忘れてはいけないような気がする。

 ところで、私が「自分は自由が好きなのだ」ということに気づいたのは、実は最近である。小学校の頃から、決まりがあれば黙って守っていた。それは一つには、反抗するほど理不尽な決まりでもなかったからである。レポートなどの締め切りも普通に守ったし、職場でも書類は普通に提出してきた。しかし、最近、職場に「管理型」の人が現れた。この人の思考回路は「言っておかないと、こちらが責任を問われる」である。だから不必要なまでに細かいこともごちゃごちゃ言う。私にははっきり言ってどうでもいいことであり、この人の言うことを守るのも面倒くさい。守らなくても職場はちゃんと回るし、人間関係も良好に保てるからだ。このことにイラつき始めたときに、やっと自分は自由が好きだ、と気がついた次第である。こういうふうに、自由というものは手の中にある時には何も感じず、失われかけてはじめて「まずい!」と思うものなのかもしれない。だからこそ決してこれを摑んだ手をゆるめてはいけないと思っている。

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