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Green Talk 54 : 家庭に閉じない循環

手や顔を拭くフェイスタオルですが、我が家は買う時の決まりがあります。場所別に同じ色で買うこと。買う枚数は4枚、平日と週末に1回洗濯ができたら問題なく回る枚数です。そして、それを半年 - 1年で買い換えるということです。ちょうどお洗濯を約100回くらいは超えた時期になります。

それらのタオルは、台所、お手洗い、洗面所の3箇所で利用するのですが、今は、キッチンはブラウン、お手洗いはネイビー、洗面所はホワイトです。
それ以外にもスポーツなど体を拭く用途のタオルはありますが、それらは貰い物や好んで買ったもので、決まりが適用されるのは、挙げた3箇所のタオルです。見直し/買い替えも、いわゆる春秋の2回わかりやすい4月/10月と決めているので忘れにくく。

この決まりは、わりとうまく自宅の中で回っているのですが、社会や環境にいいことと考えた時に、最初に思いついたのは、切って雑巾にすることでした。ですが、こちらで書いた通り、バスタオルで意外と我が家は”充分”にある状態だと、運用しながら最近思っています。

糸くず問題も無印で乗り越えられそうですし、過渡期は、義理の母に相談したら「私はジグザグミシンしてる」と教えてくれました。
そろそろフェイスタオルもという時期が来て、考えると。新たに100枚近い雑巾や使い捨ての布ができる。バスタオルから作ったものも合わせると相当の数になります。余剰はストレスにもなりえます。他におきたいものの場所も奪います。

新たなことをすると何かが滞る場所がこうやって見えてくるんですね。そこをどうするのか。そうだ、循環を家庭に閉じなければ何かできるかも。Bea Johnsonさんの”私が必要ないものは誰かの必要なもの”を合言葉に、今回、行動してみました。

きっかけは、家族、甥っ子姪っ子から。幼稚園や保育園の時期の子がいます。彼らが登園して色々と汚してしまったり、体調を壊して汚してしまった時などに使えるように、「古いタオルを持っていく」と聞いていて。じゃ、持って行ってもらおう!と。快く受け取ってもらえることになりました。

定期的にこれからも渡せるのですが、彼らとは距離が少しあるのと、いつかは卒園します。できたら、地域にある幼稚園保育園の方が受け取ってくれることもあったらいいなとも思います。

ちょっと前にお邪魔した江戸博物館では、トイレがとても公衆衛生上に重要な役割と果たすと同時に、循環していたということが書いてあるものをみました。たまったものは農作物の肥料となっていたそうです。それをまた江戸の人間が食べそして排泄へ。また、下水と辻雪隠と呼ばれる公衆トイレとの棲み分けについてもきちんとしたルールがあったそう。
幕末に日本にいたイギリス人のオールコック氏の”大君の都”という著書からの言葉です。
「よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいることをのぞけば、きわめて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行をさまたげるというようなことはない」

現代は、もちろん違う施設がすでに存在し充分な意味を持っていますし、江戸のトイレを復活させて農作物を...とは思っていません。同じことを行うだけでは無理があります。
そうではなくて、その時代に合う形であれば、”循環”が作り出す力が発揮されるということと。それが回る際には、個人や家庭で止まらない社会で回す方法もあるということを、同じ日本の先人の皆さんが教えてくださっている。それを今の日本の私も、Green Talkを考える上で頭に入れておこうと思ったのでした。

その意味で、家庭から1歩だけ足を伸ばして。
住んでいる住宅に付設している保育園ががよく住民との交流の時間を取られていたり挨拶もしているので。時期をみて、素直に聞いてみようと思っています。「使い古しですが、タオルは必要だったりしますか?」と。
衛生的にダメという答えもあると思っています。

それ以外のことでも。家庭や血縁に閉じないことで、循環や力が生まれることもあるのかもしれません。