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甲子園ベンチ外の落ちこぼれが国立大学に合格するまでの話【前編】


こんにちは。
先日編入試験に合格したことがきっかけで、少しでも編入受験生の力になれればと思い、合格体験記的な記事を時系列に沿って書かせていただきました。
合格までは本当に長い長い道のりで、試練の連続でした。
自分の人生を振り返る良い機会にもなったので、一人の人生の本を読むような感覚で見ていただければ幸いです。

野球少年

小学校から野球を始めました。
野球が大好きでしたね。
寝ても覚めても野球。学校が終わったら友達と公園でキャッチボール。
家に帰ってきたら素振り。
典型的な野球少年です。

そんな時にヒーローに出会いました。
それは何年も連続で甲子園に出場していた地元の高校です。
甲子園で泥だらけになりながら活躍する姿が本当にかっこよかった。
野球少年が甲子園に憧れを抱くのは自然な流れですね。

「いつしか自分もあの高校で野球がしたい。」

その想いが野球を頑張る原動力でした。
それからはさらに自主練習に励むようになり。
地元の選抜チームで主力として活躍したりして。
どんどん自信が付いていきました。

その自信はこれから徐々に喪失されていくのですが笑。


中学校でも、当たり前のように野球を続けました。
そこでは中学校の部活ではなく、硬式ボールを使用するシニアのクラブチームに所属しました。
高校野球では硬球を使用するので、そのためですね。
正直、シニアのことはあんまり覚えてないです笑。
つまりはそういうことです。大した選手じゃなかったということです。


それでも憧れの高校で野球がしたいという想いは消えることはありませんでした。


一方勉強の方はというと、、、

全くやっていませんでした。

理由は、どうせスポーツ推薦で高校に行くから。
勉強する意味を見出いしていなかったですね。
野球だけやればそれでいい。そんな考えだったと思います。


憧れの高校に入学

そんなこんなで晴れて憧れの高校に入学しました。

悪夢の始まりですね笑。

全国各地から集まってくる野球部で、部員数は120人ほど。
中には、中学校時代に日本代表に選ばれた人もいました。

小学校に積み上げた自信は、気づいたら入学して1カ月で完全に失っていました笑。


それからは毎日が野球漬けの日々。

オフなんていう概念はもちろんなく、朝から晩まで野球で、一日中野球の事しか考えていませんでした。
毎日の練習に必死に食らいつくことしかできず、気づいたら2年が経ち。



迎えた最後の年。


その頃には完全に野球をすることが怖くなっていました。
グラウンドにいくのがすごく嫌でした。
しかも5月に腰を疲労骨折するという始末。
憧れの高校で野球をしているという実感は微塵もなく。


3年夏、甲子園に出場しましたが、私の居場所はというと、

バッターボックスでもなく、ベンチの中でもなく、

アルプススタンド。

こうして私の野球人生は儚く幕を閉じました。

人生の転機

甲子園が終わり、9月頃になると、進路について考えるようになります。
私の高校では、スポーツ推薦か指定校推薦で大学に進学する人がほとんど。

私は野球を続けるつもりはなかったので、適当に指定校推薦で大学に進学しようと考えていました。
しかし、行きたかった大学は評定が足らず。
なので、AO入試で挑戦することにしました。

結果は不合格。
まあ当たり前ですね。
3年間全くと言っていいほど勉強してなかったんですから。

じゃあ次どうするか。
その頃には、指定校の締め切りもどんどん過ぎており、枠も少なくなってきていました。
最初から無謀な挑戦なんかせず、素直にいけるとこいけばよかったんですけどね笑。

残りの少ない枠の中で、行きたい大学もなかったので、自己推薦で違う大学を受験することに決めました。

たしか小論文と面接でしたね。

絶対受かったと思いました。手応え的に。
偏差値も低い大学だったのでなおさらです。


結果は不合格でした。

笑えますよね。

なにを根拠に合格を確信してたんだと。

恥ずかしい限りです。


2つも落ちるとさすがに考えますよね。
もう大学は諦めて就職するか、余っている指定校で適当に進学するか。
でもまだ就職はしたくないし、変な大学にはいきたくない。
身の丈をわきまえろって感じですね笑。
これまで一切勉強してこなかったやつが何を言ってるんだと。



そんな時、ふと思いました。


俺の人生めっちゃ中途半端だなと。

野球も勉強も中途半端。

憧れの高校で野球をやらせてもらったのに何も残せず。

挙句の果てに大学は落ちる。

このまま適当に大学に進学したとしても
4年間ばかみたいに遊んで、適当に地元に就職して。

このままいったら、めちゃくちゃしょうもない人生になるなと思いました。

その時、初めて思いましたね。

勉強だけはやっておけばよかったと。

後悔しても時間は戻ってくるわけもなく。
刻一刻と時間は過ぎていきます。



そんなある日。転機が訪れます。

なんとなく、学校で進路関係の資料を読み漁っていると、
「編入」という制度を目にしました。

調べてみると、大学に3年次から入学するという制度で、、、

これだと思いましたね。

これでレベルの高い大学に合格すれば、この中途半端な人生を変えれるかもしれない。

今までの後悔を払拭できるかもしれない。

でも、いままで一切勉強してこなかったやつが合格できるのか。

そんな不安も不思議となく、すがるような思いで飛びつきました。

後に死ぬほど辛い思いをするなんてこの時は考えもせず。

怖いもの知らずほど怖いことはないですね笑。

無謀な挑戦

編入試験には出願資格があり、大学のみならず短大や専門学校からでも2年間で必要な単位を取れば、資格を得ることができます。
編入試験ではTOEICという英語の試験のスコアを提出する必要があるということだったので、編入実績のある英語の専門学校に進学しようと決意しました。

親に行きたい学校を告げたところ猛反対。

それはそうです。
野球しかやってこなかったやつがいきなり英語を学びたいなんて。
誰が信じるかって話です。

一生懸命説得して何とか入学してもらいました。

専門学校では、2年時の秋ごろにある試験前までにTOEICで800点を取るという目標を立てました。
800あれば、合格できると思ったからです。
(最近はインフレ傾向で800でも足りないらしいですが・・・)

そのために、1年時はひたすら基礎固めに努めました。
中学校の英語から始めましたね。ほんとに基礎の基礎って感じです。

本腰を入れて勉強したのは秋ごろからですね。
それまでは正直とにかく遊びました。
なんせ高校の時、休みがなかったもんですからね笑。

TOEICという苦しめられた試験

1年夏頃に初めて受けたTOEICは360。

まー意味が分からなかった。ほぼ塗り絵ですね笑。
ここから800点をとる未来が全く見えなかったのを覚えています。
焦りました正直。

基礎はだんだんと固まってきてたので、秋ごろから本格的にTOEICの勉強を始めました。
(TOEICの勉強法についてはまた別の記事で)

その時は金フレを中心に単語学習に努めた気がします。
まあ通学時間にやるくらいですね。

すると次の年の3月のTOEICで645点を取得。
意外といけるじゃんと思いました。

このまま順調にいけば4月頃に800とれんじゃねくらいに思ってましたね。

受験校もその頃に決めました。
名古屋大学。滋賀大学。埼玉大学。

編入の中でも難関である国立の大学に合格すれば、人生を変えることができると思ったからです。

経済学部志望だったので、専門科目の勉強もやらなきゃいけず。
早めに800点をとって、経済学、経営学の勉強に移りたかったので黙々とTOEICの勉強を続けました。


迎えた2年生になって初めての4月のTOEIC。


20点上がっただけ。


毎日勉強してこれかと。

正直、600くらいまでは、正しい対策さえすれば簡単に上がるんですよね。
完全にTOEICをなめてました。

かなり焦りましたね。専門科目の勉強もあるので5月には800が欲しい。

そこからは本気で勉強しました。
朝は5時起き。休みの日は10時間勉強しました。



満を持して5月。



点数が全く同じでした。


めちゃくちゃショックでしたね。

あんなに勉強したのに。

800が程遠い。



6月がラストチャンス。
そこで800とれなかったら名古屋は諦めようと思ってました。
秋に試験があるにも関わらず、専門科目の勉強にも入れていなかったですからね。

もう後がなくなったので、これまで以上にやりました。
めちゃくちゃ追い込みました。

朝は1時間起きるのを早めて4時起床。
昼休みも5分で食べて勉強。
往復3時間の電車の中では、寝るのを防止するために座れるにも関わらず、あえて立って単語帳を読んでました。
(立ちながら寝てる時もありましたが笑)

ちょっとやりすぎですよね。睡眠時間も十分に取らず。
体育会気質だからでしょうか。
追い込むのが美徳だと思ってしまう節がありました。

事件

6月のTOEIC。


事件ですね。

リスニングが全く聞き取れない。
点数を取らなきゃいけないというストレスと疲労でテストに集中できていませんでした。

完全に追い込みすぎました。

音声が流れてる中、気づいたら涙が出てましたね。

なにやってんだろおれと。

高い金払って受験して、参考書も買って

バイト代ほとんどつぎ込んだにも関わらず。


その時、初めて諦めようと思いました。

やっぱり無理なのかなと。

野球しかやってこなかったやつが簡単に合格できるほど編入は甘くないんだなと。

まあとりあえず入れるとこ入れればいいかなと思いました。

リーディングは塗り絵をしておわり。

涙がこぼれた問題用紙を提出し、受験会場を後にしました。

帰りの電車の中でも泣いてました。

編入を諦めるか、諦めないかの葛藤と戦いながら、、、


でも気づいたら、気持ちが切り替わっているんですよね。

絶対次で800取ると。

自分の良いとこなのか悪いとこなのかわからないですが笑。

諦めたくはなかったんです。自分で決めたことなので。


それからは勉強法を見直しました。
しっかり休養もとるようにして。

編入試験に提出できるTOEICの期限が7月だったので本当のラストチャンスです。

勉強時間的にみたら前の月より劣っていましたが、
効率は上がっていたように思います。

毎日勉強時間を記録していたのですが、7月の勉強時間はご覧の通り40時間ほど減っています。



結果は770。


目標の800には届きませんでしたが、それに近い点数をとることができ、本当に嬉しかったことを覚えています。

初めての勉強においての成功体験でした。

諦めなくてよかったと思いましたね。

さすがに名古屋には挑戦できるスコアではなかったのですが、他の2つには挑戦できる。

急いで専門科目の勉強にシフトしました。


過信の始まり

300点台から770点に上がったことにより、自信がついていきました。
やればできるじゃんと。
学校の先生にも通りすがる度に褒められました。
こんなに伸びた子見たことないなんて言われて。
こうなったら調子乗りますよね。
徐々に自信が過信に変わっていました。
自分の悪いところです。

その時は、過信をしていることに気づきませんでした。
後々気づきます。



秋ごろになり滋賀大の出願の時期が近づいてきました。

滋賀大は一次試験と二次試験に分かれており、
一次試験は志望理由書とTOEICの書類選考です。

正直、一次は絶対通ると思っていました。
TOEICもおそらく平均くらいでしたし、
志望理由書にも結構自信がありましたし。


そして最大の間違いなのですが、
きっと自分は今年の編入試験に合格して、今までの努力が報われるんだろうなと思ってました。
こんなに辛い思いをしたのは自分だけだと。

絶対ここで報われる。

なにを根拠にそう思ったのか。今考えても謎です。
努力なんて報われないほうが多いのにも関わらず、、、



一次の合否発表当日。


絶対あるはずだと思っていた自分の番号を探しました。


結果は不合格。


情けなすぎる。


さすがにへこみました。
2日くらいは何もやる気が起きず。

友達に相談に乗ってもらったりするなかで、
初めて自分が過信をしていることに気づきました。




結果なんてどうなるかわからないですよね。
いつ報われるのかなんて神のみぞ知る話で。


「人事を尽くして天命を待つ」


こんな言葉があります。

自分のできることを全てやったら、あとは結果を天に任せるという意味ですね。

まるで自分とはかけ離れていましたね。


この言葉を胸に次の大学に挑もうと決意しました。

埼玉大の受験まであと1か月ほど。

切り替えて勉強に取り組みました。




迎えた受験当日。

やれることはすべてやりました。

これで落ちたらしょうがない。

そう思ってました。



結果は不合格でした。


意外と清々しかったですね。
全落ち確定したにも関わらず笑。
まあやれることはやったし。しょうがない。
滋賀大の時より成長した自分がそこにはいたと思います。

他に入れるような私立の大学を受験することも考えましたが、
来年もう1度受験をすることに決めました。

編入浪人という選択

自分の人生、挫折だらけだなと思ったんですよね。

高校では、ベンチに入れず、挙句の果てに腰を骨折。大学受験失敗。

専門学校では、TOEIC受験の過程で何度も折れ、編入試験も失敗。


こんなに困難が多いやつ同じ年で他にいるのかと思いました。

この数だったら自信があるなと笑。

困難は有難いってよく言うけど

こんなに困難を与えてもらって、

これ無駄にしたらめちゃくちゃもったいないなって感じました。



でもこれって別に編入に挑戦していなければこんな経験はしなかったんですよね。

普通に大学に進学すれば、平凡な毎日が待っていただろうし。

もっと言えば、高校時代に関しても、あの高校に進学していなければ普通に試合にでれただろうし。


そう考えたらこの困難を絶対に無駄にしたくないと感じました。

この考えに至れた事が大きかったと思います。

こんな負け組みたいな人生で終わってたまるかと。

だから浪人することに決めました。

妥協していけるとこにいったら、この困難が無駄になると思ったから。

編入を諦めて就職するという選択はもちろん眼中になく。

次の年に報われるか報われないかはわからないけど、報われると信じてもう一度挑戦したい。

そうして2度目の挑戦がスタートしました。

後編はこちら↓



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