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ウガンダ国民の苦難

義母が病気になった経緯を知りたいと、クリスティン義姉さんにお願いしたことから、悲しい内戦の思い出があまりにも沢山送られて来て、圧倒されています。そして、夫からも話を聞いていると、情報が多過ぎて、それぞれのエピソードの時系列とか、当時のそれぞれの年齢などのディテールが矛盾したりして、捉えどころがない謎に手を付けてしまったようです。

やっと少し、一部分だけど、謎が解けたのは、2つの戦争の話を一緒にして聞いていたと気付いた時でした。例えば、「戦闘が激しくなった時に、カンパラ(首都)を離れて遠くの村まで避難した」と聞いていたのに、「終戦の時には、カンパラのルバガ大聖堂に寝泊まりしていて、そこでムセビニ軍がカンパラを制圧したニュースを知った」と言うではないですか。カンパラ制圧は重大事件だから、記憶違いはないでしょう・・・。

よく聞いてみたら、実は、遠くの村に避難したのは、アミン大統領とタンザニアの戦争の時で、1970年代終わり頃の話。そしてルバガ大聖堂で避難生活を送ったのは、オボテ政権に対するムセビニ達の抵抗軍の内戦の終わりの1986年。1970年生まれの夫にしてみれば、ものごごろがついたばかりの頃と、15歳の頃と二度も戦争に巻き込まれて立ち退いていたんですね。「家が戦場になるから避難する」体験て、想像しただけでも一生忘れられない辛い思い出だけど、それが2回も・・・。

一方、日本では・・・自分は同じ時代に何をしていたのでしょうか?と思い出そうとしてもぼんやりしているので、ヒントになればと思って検索してみたら、1979年のヒット曲は、ピンクレディーの「カメレオン・アーミー」、ゴダイゴの「ガンダーラ」等です。1986年のヒット曲は少年隊の「仮面舞踏会」、「男女七人夏物語」の主題歌「CHA-CHA-CHA」等でした。「ボディコン」が登場した年でもあったそうです。バブル前の浮かれた時代でした。

ウガンダに話を戻します。前回の記事は、オボテ軍の兵士が強盗だったという話でしたが、オボテ大統領時代のUganda National Liberation Army(UNLA)の残虐行為は それだけではありませんでした。ある日の早朝、UNLAの兵士達がナテテ一帯の全ての家庭を家探しして、家から、通りから男性全員を捕まえて連行してしまったそうです。中高生の男子も含めて男性という男性は全て捕らえられたそうです。「パンダ・ガリpanda gari」と呼ばれる行為で、民間人を誰彼構わずトラックの荷台に乗せて連れ去り、取り調べの後、抵抗勢力の支援者と見なされた人を拷問、虐殺してしまうそうです。その時、義父はトイレに隠れて、難を逃れました。年長の義兄ジョンと従弟のリチャードが連れ去られましたが、ジョンは翌日に釈放され、リチャードは、トラックの荷台から飛び降り、茂みに身を隠しながら逃げ帰る事ができたそうです。運良く家族の男性が翌日に帰る事ができた女性達は大変な喜びでしたが、そうでない無い人達は、泣き続け、とうとう戻らなかった男性もいるそうです。疑いをかけられると裁判にもかけられず殺害されるという恐ろしい時代でした。立派な家を建てたり、自動車を買ったりすると注目されて疑われました。家族に十分な食事を与える事もできなくなっていました。産業が荒廃して、お金があったとしても砂糖を買う事すらできない時代でした。電力が止められ、暗闇の中、兵士達に襲われるのを恐れて、屋外で毛布を被って寝た夜もあったそうです。

ナテテでパンダ・ガリが行われた朝、夫はまだ小学校高学年位で、登校途中でしたが、一緒に登校していた近所のお兄さんが、最初に異変に気付いて、遠くで兵士達が逃げる人を捕まえているのを見つけたそうです。通りを離れ、二人で一緒に走って逃げたそうです。どこをどう逃げたか覚えていないけど、捕まったら終わりだと思って、必死に逃げて、ナテテの町から離れ、一緒に逃げたお兄さんの親戚の家に保護してもらったそうです。そこで、二晩泊まらせて貰ったという事ですが、電話等なかった当時、夫が家に無事に帰り着くまでの義母の心情を想像すると、心臓を患ってしまったというのも無理はありません。

クリスティンは中学生(日本で言うところの)だったそうですが、登校しようと家を出た途端、皆が逃げているので、何が起こっているのかわからないまま、自分も走ってできる限り遠くまで逃げて、もう走れなくなった所で座り込み、お昼頃まで座って待って、それからゆっくり歩いて家に戻ったら、どの家からもお父さんが連れて行かれていなくなっていて、女性達が泣いていたそうです。

パンダ・ガリとはスワヒリ語でパンダ=乗り込む、ガリ=車の意味で、車で誘拐する事を指すそうです。オボテ政権の軍UNLAによっ繰り返されていたそうです。実は、このパンダ・ガリの起こった時期も、始めは私にとって謎でした。クリスティンも夫も、連れ去られたリチャード本人まで、このナテテのパンダ・ガリが何年のことだったのかはっきり思い出せませんでした。クリスティンは、パンダ・ガリはアミンの軍隊が行っていたと言い、夫とリチャードは、オボテの軍隊だと言います。最後は夫がクリスティンに電話をかけ、かなり長い事、お互いの内戦時代の記憶を突き合わせて話合っていましたが、やっぱり、オボテの時代だったと落ち着きました。

そして、恐らく1982年の事で、オボテの軍の行いだったと確信が持てる情報を見つけました。デイリーモニター新聞の記事です。読むと息ができなくなる位残虐です。登校途中の高校生まで、何の罪も犯していないのに捕らえられ、理不尽に暴行を受けて、そのまま消息がわからなくなったというお話です。生きて戻れた人と戻れなかった人の運命の違いに何の説明もつけられません。

お義母さんが病気になった経緯を知りたいと思った事から、ウガンダの歴史の闇に気付いてしまいました。クリスティンも夫も、思い出さなくても良い辛い記憶だったから今まで黙っていたのでしょうか。酷な事をしてしまいました。けれど、同時に懐かしく思う感情も混ざっているようで、電話での昔話に高揚しているようでもありました。そして、来たる義父と義母の法事の時に、親族一同でナテテに集まった折には、皆の途切れ途切れの記憶を語り合って、より集めて義父母の歴史を整理して纏めようという話になりました。大きなプロジェクトになりそうです。そこでまた義母と義父の話が沢山聞けるのが楽しみです。・・・ガンダ語で話されるので、理解できるのは大分後になりそうですが。

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