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黒猫りんの物語世界3

3、りゅうちゃんとの再会


白と黒、表と裏、闇と光、陰と陽、どんな物にも正反対の何かがあるのだとすれば、心の正反対は体だろうか。
心は見えないし触れられないけれど、体は触れられる、目にも見える。
目に見えるようになった、言葉や行動として現実化されたものからしか、心はうかがえない。
体は心をうつす鏡のようなものだと思う。心もまた体と一体で、合わせ鏡のように、お互いを映し出しながら存在しているようなイメージだ。
その体も心も、どちらも大事で、関連しあって成長し学びながら、生きていくのが、理想的なのだろう。
私は、幻聴や幻覚、妄想といった症状は出ないのだが、ある事件に遭った記憶のフラッシュバックがある。
二年以上前のことなのに、まるで今ここにまた事件が繰り返されているような生々しい感覚も伴い、その度に苦しんでいる。
私はそれらの出来事を受け入れきれずに、統合失調になってしまった。
その件については、まだ、心の整理がついていないし、怖いし、悲しいのだ。
失ってしまったものを数えはじめたらきりがないが、だからこそせめて今を、一生懸命生きようと、心で決めている。
私の願いに、体はなんとかついてきてくれている。

「あれは、男でも女でもないにゃん」
にゃん太は言った。
「そうね、もしかしたら、どちらでもある、って考えたほうが、正しいんじゃないかしら」
奏子さんも困惑気味に、頬に手を当てる。
二人は、デイケアでもメリイでも、一日だけやってきたらしい、私が体調を崩してしまっていない間に、出会った謎の人の話をしている。
にゃん太と奏子さんが私を挟んで、メリイの大きなソファに三人で腰かけて話している。
その謎の人は、恰好は男性なのだが、それにしては端正な顔立ちで、どう見ても女性の柔らかさがあり、男性でも女性でもないようなあるような、中性的な人物だったのだという。
一人やってきて、話しかけても上の空で、けれどデイケアでもメリイでも、終る時間まで動かずに、最後まで一人でいたらしい。
「何回も話しかけたんだけどね」
「にゃんにゃん」
私は頭をひねる。
「うーん。緊張して話したい気分じゃなかったとか」
「そうねえ。そんな風にも見えたかしら」
「そうだにゃん。緊張して固まってしまったにゃんよ」
「――もしや、にゃん太が、変なことしたんじゃないの?」
奏子さんの意見に、にゃん太は腹を立てた。
「失礼にゃん!」
「誰だって、猫おじさんに、しつこく『にゃんにゃん』話しかけられたら、返答に困るわよ」
「ふん、それは奏子にゃんも同じにゃん。出会いがしら遠慮もなく笑顔を振りまいて、『食われる』って思わせてしまったに違いないにゃんよ」
「な――なんですって?」
私は仲裁に入る。
「もー、喧嘩はやめてください。にゃん太も、駄目にゃんよ?」
「向うが悪いにゃん」
にゃん太はふてくされる。
「りんちゃんは私の味方よね?」
「いえいえ、いつだってどちらの味方でもあるけれど、とりあえず、喧嘩は両成敗です。お互いに気を付けてください!」
奏子さんとにゃん太は、目線を合わせると、喧嘩をやめて笑いあった。
「りんちゃん、すごいわね。猿と犬並に、仲の悪い私たちを、両成敗させちゃうんだから」
「りんにゃんくらいにゃん。俺らの喧嘩の仲裁に入るのは」
「そうね、普段は、周りはみんなびっくりして、私たちを遠ざけるから、延々と続いてしまうのに」
なんだか、にゃん太も奏子さんも、喧嘩慣れしているというか、もしかして喧嘩を楽しんでいたのだろうか。
そういう不思議な関係もあるもんだ。
私は余計な口出しをしたのかもしれない。
奏子さんは表情から、私の心を読み取った。
「あのね、喧嘩は遠慮なく止めてくれていいのよ? 不毛なんだから」
私の傍らで、にゃん太も頷いている。
「なら、最初からしないでください」
「うふふ。どうしてもにゃん太とは、気が合わなくって」
「そうにゃん。お互いそりが合わないにゃん」
どうしょうもない会話をしている最中、メリイの入り口についている鈴が鳴った。
振り向いた奏子さんは、すぐに声を低めて言った。
「来たわ! あの子よ」
「にゃん!」
「名案があるわ。りんちゃん、あなた、話しかけてきなさいよ。もしかして、りんちゃんなら」
「おお。それはいい考えにゃん」
奏子さんとにゃん太に背中を押され、私は立ち上がった。
「お二人に無理だったことが、私にできるとは思いませんが」
ソファを離れ、メリイでも最も目立たない隅の一角にある椅子に、その子は座っていた。
私は、後ろからそっと声をかけた。
「あの、はじめまして」
「?」
その子は振り向いた。
とたん、じわっと目頭を赤くして、私に飛びついてきた。
「りん!」
この声には、聞きお覚えがある。
「もしかして――――りゅうちゃん?」
恐る恐る声をかけると、私の肩に頭をのせ、きつく抱きしめているそのままの体勢で、その子は、頷きながら泣き出した。
りゅうちゃんは、女子高時代のクラスメートで、仲良しグループの一員だった。
あるときから、めっきり連絡がとれなくなり、皆で心配していた。
長いストレートの髪がよく似合う、整ったはっきりとした目鼻立ちの女の子だったのだが。
「なにか、あったんだね」
男の人の恰好で、こんなところにいる、というのは、たぶんそういうことなのだ。
「りんも!」
「うん」
なんだか私も急に悲しくなって、声をあげて泣き出してしまった。
二人してしばらく泣いていると、奏子さんとにゃん太がやってきた。
「二人とも、落ち着いて」
「みんなびっくりしているにゃんよ?」
たしなめられ、りゅうちゃんは私から体を離した。
「その。ごめんなさい」
「ごめんなさい」
私とりゅうちゃんは、頭を下げる。
奏子さんは微笑み、私とりゅうちゃんの手をとる。
「べつに誰も、怒っているわけじゃないのよ」
「りんにゃん、知り合いにゃん?」
私はにゃん太に、そうだと告げる。
「女子高時代の、大事なお友達にゃん」
「にゃん。それは、―――切ない再会にゃんねー」
私たちの心情をくみ取り、にゃん太は涙を浮かべる。
「お名前は?」
優しい笑顔の奏子さんに、りゅうちゃんはおとなしく答える。
「『りゅう』って、呼んでください。ごめんなさい。できたら、りんと少しでいいから、二人きりにしてもらえませんか?」
「もちろん。必要なら、ここより狭いけど個室もあるわよ?」
「じゃあお言葉に甘えて、個室、使わせてください。いいかな? りん」
「うん。そうしよう」
目の下を赤く腫らしたりゅうちゃんを見ると、懐かしさがこみ上げてくる。
お互い同じ気持ちなのだろう。りゅうちゃんも、表情が緩んでいる。
二人仲良く、個室に入っていった。
面談用にもよく使われる、テーブルと椅子が数個あるだけの部屋なのだが、少しでも見栄えがいいように、ポプリや花瓶が置かれれている。
「りん、元気だった?」
「病気のわりには」
「なんて病気?」
高校の時と同じ、はきはき、きっぱりした話方だ。
「私はね、統合失調症」
「あー、じゃあ僕とは違うんだね」
僕、かあ。昔は「私」だったのに、ずいぶん男の子らしくなっている。
「りゅうちゃんは?」
「ごめん、君には聞いておいて、自分のは言い辛いや」
私は顔の前で手を振ってみせた。
「いいよいいよ。りゅうちゃん辛そうだなって、それだけわかれば十分」
「うん。ふふ。――りんは変わらないねえ」
しみじみ言う。
りゅうちゃんは、変わったなあ、という感想は、どうも言い辛い。
「話、聞いてもらっても、いい?」
昔みたいに、と、りゅちゃんは懐かしそうな、切ないような、泣きそうな顔をして言う。
「うん。なんでも言って。もちろん秘密厳守、よ?」
「長い話になるけど、実はね」
高校を卒業したあと、彼女がどんな目にあって、どうして今のようになったのか、りゅうちゃんは、事細かに、三十分かけて語った。
それでわかった。
りゅうちゃんもまた、私と同じような目に遭い、心がおかしくなってしまったこと。
りゅうちゃんの遭った心の事故は、私以上に彼女を苦しめて、家族と絶縁し、女性であることをやめてしまったのだという。
「まだフラッシュバックがひどくて」
「りゅうちゃん、私も」
私もまた、大学を卒業してしばらくしたあと、りゅうちゃんと似たような事件に遭ったこと、それから、まだ苦しみ続けていることを、語った。
「まさか、りんまで」
りゅうちゃんは、私のために泣いてくれた。
そして、お互い回復の途上であることを理解しあい、これからは、何かあったら連絡を取り合おうと、携帯の番号とメールアドレスを交換した。

りゅうちゃんは、変わってしまった自分自身を、うまく受け入れきれていないらしく、誰かに話しかけられても、上手に話す自信がなくて、デイケアでもメリイでも、一人でいたらしい。
女の人から男の人へとなったその変化には、本人が一番戸惑っているようだ。
どういうメカニズムで、そんな風になってしまったのか。心という繊細なものの働きは、計り知れない。まさか、体は女性のまま、男の人になってしまうなんて。
心の怪我を負った理由は同じなのに、私は狂気にのまれ、りゅうちゃんは女性である辛さを抱えきれずに、男の人になった。
どちらも、きっと心を守るために。

「そういや、にゃん太はなんで、猫になることにしたのニャ?」
デイケアの日、にゃん太の隣に座って、病院の提供するお昼ご飯を食べる。
今日の献立は、しゃけのチャーハンに、卵のスープ。
私は疑問に思っていたことを聞いてみた。
にゃん太は顎を撫で、
「うーん、人でいれば辛いシチュエーションでも、猫なら、俺、猫だから、まあいっかって、思えるからにゃ」
「へえ。それ、すごくいいアイデアかも。何かあっても、病気だからじゃなくて、猫だからって理由なら、すんなり心で受け入れられるもんね、にゃん」
「だろ? りんは物事がよくわかっているにゃん」
私は、自分だけでも、自分の感性や心を大事にすることを、尊いと思っている。
自分が自分を受け入れ、許すことができなければ、他の誰がどんなに頑張っても、自分はみじめなままだ。
だから、自分を守るために猫になったにゃん太は、賢いと思う。
「りゅうちゃんも」
「にゃん?」
「いや、その、あのりゅうちゃんもね、あまりに辛くて男の人になるのを、心と体が選んだんだろうなって」
私が深刻に沈みそうになると、にゃん太は助け舟を出した。
「猫になれれば、もっと気楽にいけるにゃん。今度猫仲間に、誘ってみようにゃん」
「にゃん太」
私はつい涙腺が緩み、にゃん太に頭を撫でられる。
「よしよし。りんにゃん、無理はしないでいいにゃんよ。りゅうと会ってから、何やら思い詰めてる様子にゃん。きっとまた、お節介焼こうとしてるにゃんね」
指で涙をぬぐって、えへへとごまかし笑いをする。
「にゃん太ありがと。お節介、気を付けるにゃんよ」
「それは、りんにゃんの長所で短所にゃん。ほどほどににゃん」
私はにゃん太のアドバイスを、ありがたく受け取った。

そうこうしているうちに冬になった。
暖冬だが、葉を落とした木々は寒々しく、十二月、クリスマス一色のイルミネーションが街を彩っている。
今日は、りゅうちゃんから「会わせたい人がいる」と、連絡があったので、賑やかな繁華街までやってきた。
駅前の時計台の前で待っていると、時間きっかりくらいに、りゅうちゃんはいかにも可愛らしいおしゃれな女の子を連れてきた。
「りん、お待たせ」
デイケアやメリイで見せた孤独な表情とうってかわって、女子高生時代の時そのままに、輝いていた。
「こんにちは! りゅうくんの親友?」
たぶんいくつか年下と思われる、カールした髪と、可愛らしい大きなリボンのついたスカートがよく目立つ女子が、私に語りかけてきた。
「こんにちは。私はりんです。りゅうちゃんは、高校時代の大切なお友達よ」
ふーん、と、まるで値踏みをするように眺められ、私は焦る。
カーキのワンピースは、お気に入りなのだが、地味な格好すぎただろうか。
私はめっぽうおしゃれに無頓着なので、細かくチェックされると、困る。「まあまあ、釣り合わなくもないけど」
誰と? りゅうちゃんと? と、私は戸惑う。
「さ、行きましょう。カラオケ!」
とりあえず、三人でカラオケに行くことになった。歩き出すと、カール女子が不満そうに言った。
「りゅうくん、さっきから黙ってないで、私をこの人にちゃんと紹介してよね」
「ああ、ぼーっとしててごめん。りん、この子は僕の彼女。ことりちゃん」
「ことり、ちゃん? かわいいお名前ね」
ああ違う。私は驚いていて、つい気になることをスルーして、ことりちゃんに目を向けてしまった。
「可愛いのは、名前だけじゃないでしょ?」
うふふふ、と、上目使いで笑う。
私はうんうん、と、頷いて肯定する。
―――そうかあ。彼女かあ。
衝撃を受けなかったわけじゃないが、なんだかとっても安心した。
りゅうちゃんには、愛している人がいて、その人から愛されているのだということだから。
そうして、私はことりちゃんに感謝の念を抱いた。
私たち三人は、近くのカラオケに入り、そのあとビルの中にあるパスタ屋さんで、軽く食べてそれぞれの帰りの駅へと向かう。
使う路線の違うことりちゃんと別れ、りゅうちゃんと二人きりになったき、私は感じたままに言った。
「りゅうちゃん、ことりちゃんといるときは、まるで学生時代みたいだったよ。あなたを愛してくれる人がいて、本当によかった」
りゅうちゃんは、照れ笑いした。
「大事にしてあげてね」
「もちろんだよ」
りん、ありがとう、と、りゅうちゃんは私に軽くハグをした。
「君は変わらないなあ。ずっとそのままでいてね」
「?」
りゅうちゃんは涙目で言う。
「誰も、僕自身も、まだまだ、いろんな変化を受け入れきれていないに、君は底なし沼みたいに受け入れきろうと笑いかけてくれるから。そんな君だってわかっているからこそ、彼女を紹介したんだけどね」
「そっか」
「じゃあ、また」
大きく手を振り、バス停に向かってりゅうちゃんは駆けていった。

大丈夫だ。

すぐに来たバスにのまれていくその背中を見つめながら、私は凍える両手をこすって温めた。
私も、たぶん、りゅうちゃんのように、誰かを好きだと思える日がくるに違いない。
無理せずに、頑張ろう。
そう思えた。

しかし一週間後、クリスマスを待たずに破局はあっけなく訪れ、りゅうちゃんから、「あまりのショックに耐えられないから会いたい」というメールが来て、私はりゅうちゃんのアパートがあるという、最寄駅までやってきた。田畑が広がる、郊外の駅だ。近くには石材店があるだけで、住宅街までは三分は歩かないと着かないだろう。
自動販売機でおしるこを買って飲んでいると、りゅうちゃんは私を迎えにきた。
オリオン座がうっすら輝きだす時刻。
りゅうちゃんのアパートの傍にある、広い自然公園に私を案内し、園内の街灯の傍にあるベンチに座る。
今日は風も強く、これでもかと厚着してきたが手足が寒い。
「家の中、荒れてるから、ここでごめん」
「いいよ。寒いけど、我慢できないほどじゃないし」
私は四つもってきたホッカイロの一つを、りゅうちゃんに手渡した。
「りん、大事な話があるんだ」
りゅうちゃんは、黒目が大きな瞳で私を見つめた。
「よかったら、その、僕と付き合わない?」
「―――りゅうちゃん」
私は、りゅうちゃんの冷たい手をとってホッカイロで温めてあげながら、首を振ってみせた。
「ほんとにちゃんと好きな人にしか、そんなこと言っちゃだめ」
りゅうちゃんは、焦りながら言い募る。
「りんのこと、好きなんだ」
「知ってる。でもそれはたぶん、付き合うとかそういうことすると、なくなっちゃうような、懐かしい感覚じゃない? 私だって、りゅうちゃんのこと大好きだけど、お付き合いしたいとは思えないのよ」
「付き合ってみなくちゃ、わからないじゃない?」
私は再度首を振った。
「わかるわ。まるで、りゅうちゃんの心の悲鳴が聞こえるみたい。誰かに愛されたいって。一人は嫌だって。私だってそうだから。だから、だめなの」
「――りん」
りゅうちゃんは泣き顔を隠すように、私の肩へ額を乗せた。
「誰かに強く愛されていないと、生きた心地がしないんだ」
「そう、だよね。私にもそれは、わかる」
「同じ気持ちってことかな?」
食い入るようにりゅうちゃんは見つめてくる。
私は静かに目を伏せた。
「違うわ。私は真逆なの。人を愛するのも、愛されるのも、怖くて嫌なのよ。一人がいいって、孤独がいいって、思っているわけじゃ全然なくて。恋愛とか、そういうものが怖いの」
「そう、だったのか」
りゅうちゃんは、私から少し離れた。
「ごめん。自分のことで精いっぱいで、君の気持も考えないで」
後悔の涙を流すりゅうちゃんに、私は笑って見せた。
「いいの。私は恋愛が怖くて、りゅうちゃんは恋愛依存的なところがある。その理由はたぶん一緒。人間の心の在り方って、複雑ね」
「今日は、ほんとにごめん。これからも友達でいてくれる?」
りゅうちゃんは、恐れるように聞いてくる。
「そんな風にあわてる必要なんかないわ。私とりゅうちゃんとの友情は、こんなことで壊れるくらい、もろいものじゃないでしょう?」
北風が吹きぬけていく。
りゅうちゃんは、よかったと泣き笑いした。
それからしばらく、私たちは、懐かしい、高校時代の話をした。
お腹が空くのも忘れて、何回も笑い合った。

大丈夫。

と、私は私の心に語りかけた。なんだか、りゅうちゃんを通して、いろんなことがあって、私の心のバリアも、弱まってしまっている気がする。
平気なフリをしたって、出てきてしまう心の悲鳴。
私は、私の内側にある痛みには、とうに気が付いている。
どう付き合えばいいのか、それがわからなくて、統合失調症になるくらいのもの。
逃げられないのは、わかっている。
できれば目をそらしていたいのだけれど。
冬が深まるにつれ、私もまた、心が冬のように凍てついて、寒がっているのを、感じずにはいられなかった。

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