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なおすことはセラピー

ものをなおす、という仕事をしている。
誰かにとっての思い出のカップや湯呑み、先祖代々受け継いでいる重箱、そんなものが次々とうちにやって来ては修理して返してあげる、そんな仕事だ。


ものをなおす仕事に関わったのは今から6年前、京都の茶道具の卸会社で修復部門として働いた時だった。

ちょうど6年前は漆で作家活動をしていて、この先、物作りを続けていくのが正しい道なのかわからなくなっていた頃でもあった。
ものづくりが好きだったはずなのに、ものを作り出すことは同時に端材や消耗品など多量のゴミが副産物として生まれてしまう。

例えば、漆にピンホールカメラで写真を写す作品を当時作っていたのだけど、まず漆を塗る素地となる木のパネルを作り端材が生まれ、何キロもの大量の漆を消費し、作品を現像するためのバットを作り現像液などの溶剤を消費し、作品を写すカメラの感光を防ぐために黒いスプレーと黒いテープなどを何本も消費し、書ききれないほどの消費が存在する。大きい作品を作るほど消費は大きい。

当時住んでいた自宅兼アトリエは、いつも作品よりも大きな作品づくりに必要な大量の資材に囲まれていた。

消費していくことは疲弊につながり、そんな気持ちの中でものを直すという仕事に出会い、修理を仕事にしようと方向転換したのは自然な流れだった。

周りにはものづくりを諦めた、という風にも見られたけど、自分の手の中で400年前の江戸時代の傷んだ古物が息を吹き返すのはかなりクリエイティブな感覚だった。壊れたものが元に戻っていく、という行為がただただ面白かった。手を動かすことで、時間を巻き戻したような感覚が生まれる。ゼロから物を生み出さずに、すでにあるもので仕事が生まれ、その上喜んでもらえるのはなんて理にかなった仕事なんだろう。

私はなおす仕事によって、ものづくりのジレンマを解消できた。自分の手元には経験としての写真しか残らないのもすごくシンプルだ。
なおすことはセラピーである、そんなことを年月をかけて実感し始めている。
それは私の仕事への解決だけに限らない。


修理の仕事は誰かの大事なうつわや思い出の品を預かる。亡きお母さんの形見、両親の結婚指輪の代わりでもある漆の婚礼道具…
大切なものだからこそ、壊れてしまったことのショックは大きい。こちらから特にエピソードを聞かずとも、自ずとそのモノにどんな思い入れがあるものか語ってくださることも多い。

この前、印象的な出来事があった。
亡きお父さまの形見である、マイセンのカップ。
金継ぎしてお返しするとき、カップを見た途端にお父さまと過ごした日々を喚起したようで、涙がこぼれそうな目で当時のご家族との会話などを話してくださった。 

ものを預かってお直しすることは、うつわの診療所のようだなあと感じている。うつわだけじゃなく、お直しすることで心の傷も癒えているようだ。ものを通して大切な人を見ている。


私にとってはもう、ものをなおす、ということは生活の中の基礎体力のようなものだけど、やはり一般的にはそうでない。

三拠点で金継ぎ教室を開いている。鳥取地震や大阪地震の時、割れてしまった食器について「壊れた物はなおせばいいですから」と笑って話す生徒さんの多いこと。
なおせる技術が身につく、ということはもちろんいいのだけど、この、物はなおせばいいのだの心構えが身につくことが私はすごくいいなって思っている。同じ出来事が起こっても前向きに捉えられるほうがずっといい。

学生時代、物作りに関わって作品に幾度となく助けられていた。今はなおす仕事に助けられているなあとつくづく感じている。
手を動かすこと、時間をかけることはいつだって色んな思考を与えてくれる。
なおすことはセラピーじゃないか。


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