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No.3 |フランス料理店 pedibus jambus(ペディビュス ジャンビュス)の舞台裏

東急東横線・祐天寺駅から徒歩約2、3分にある人気フランス料理店『pedibus jambus(ペディビュス ジャンビュス)』。当社の50周年展示会の打ち上げで、おいしい料理をふるまっていただいたのが店主の佐伯さんです。
※現在は白金台に移転しております。

インタビュー当日は休業日の昼時でしたが、何人ものお客さんが訪ねてくる、人気のお店です。 フランスでの修行時代やダイナミックな今日までのストーリを伺がってきました。



― とても印象的な店名ですね

"ペディビュス ジャンビュス"と読みます。
昔ホームステイしていた、フランス・プロヴァンス地方のおうちのお父さんの口癖なんです。

丘の上に家があったので、町に行くために毎日丘をのぼりおりしていたんですが、帰宅した時に「今日もペディビュス ジャンビュスだねー」と言われました。
どういう意味かと聞いたら、「せっせと歩いていれば、いつか辿り着くよ。だから頑張って歩け!みたいなことだよ」と、笑って教えてくれました。
ちゃんとした言葉ではなく、おじさんたちが適当に喋っているような言葉みたいです。

お店の名前を決めるにあたって、他と被らない名前が良いなと思った時、「これだ!」と閃きました。
長くて難しいから、誰も覚えてくれないんですけど(笑)


― 素敵な言葉だと思います。さて、料理に出会ったきっかけを教えてください。

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はじまりはドキュメンタリー。

高校3年で、周りはみんな受験勉強をしていたんですけど、私は勉強が嫌いで。どうしようかと思っていた時に、外国で屋台を引いている人のドキュメンタリーを見て、ビビッときましたね。
もともと外国が好きだったのもあって、日本文化である和食を外国でやりたいと思い、親に留学か、日本の料理学校に行かせてほしいと頼みました。
「英語なんて全然やってこなかったのに、外国に行っても仕方ない。学校ならいい」と、東京の料理学校に通わせてくれました。

入学してすぐに仕事先を探したんですけど、その当時、和食は一切女性を受け入れてくれなかったんです。銀座のフランス料理屋さんが募集してたので、ひとまず見習いとして入って、そこで働きつつ料理学校に通いました。

卒業した後も、そこのフランス料理のシェフが怖くて、しばらく辞めることが出来ませんでした(笑)

チラッと「和食もやってみたいんですけど」と言ってみたら、「そんなことよりまず俺のところで修行だ!」とバッサリでしたね。
結局18~20歳までの3年間、フランス料理屋で働き続けました。


― そこからはフランス料理一筋だったんですか?

この頃には就職先がないこともあって、和食はもういいやと思っていたんですが、自分の意志半分でフランス料理をやり続けていいのだろうか?という疑問がありました。

最終的に何の料理をやるかは自分の目で見て決めようと、20歳の時、意を決してシェフにイギリス行きの飛行機のチケットを見せて、辞めさせてほしいと伝えました。無事辞めることは出来ましたけど、「なんでフランスじゃないんだ!」って怒られましたね(笑)

イギリスのホームステイ先をゲットして、そこを拠点におよそ1年間、ヨーロッパの国をいろいろと食べ歩きました。
その中で、やっぱりフランス料理が面白そうだと自分の中で納得できたので、最終的にフランス料理に落ち着きました。

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店内もフランスの片田舎のよう。

― すこし脱線して、旦那様について教えてください。

イギリスから帰国後、東京のレストランに勤務し、そこで同じフランス料理を志す夫に出会いました。『マダガスカル公邸料理人になるから、マダガスカルに行く』と言うから、私も行く!と結婚することにしたのですが、結局行かなくて。代わりに、とりあえず新婚旅行がてら、半年くらいフランス食べ歩きの旅に出ました。

星なしから3ツ星まで、フランス各地のレストランを食べ歩いていたんですけど、最後のお店でお金が無くなってカードが切れなくなってしまい…。
ひとまず私が帰国してお金を返すから、あなたは好きなところで働いてくればいいじゃんと、旦那を置いて私一人で帰国しました。
それから2年間、私は日本で働いて使いすぎたお金を返しつつ、旦那はフランスで働いていました。

新婚旅行を境に、また別居が始まるという、まさかの展開でしたね。

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笑顔で語る、驚きのお話。


― 本当にまさかの展開ですね…。

別居が始まって2年くらい経った頃、フランスが恋しくなったので、「そろそろ交代してくれ」と夫に頼み、夫が帰国するかわりに、私がフランスに行きました。ビザが降りるのを待ちきれず、とりあえずそのまま現地に飛んでしまいましたね。

探したホームステイ先が、店名の由来になった口癖のお父さんがいる、プロヴァンスのおうちでした。先祖代々引き継いでいる広大なオリーブ畑があって、郵便局員のお父さん、中学校教師のお母さん、私と年が近い姉妹がいる家庭です。

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プロヴァンスのおうちの外キッチン

そこを拠点にして、ミシュランを見ながら「次はこの地域にしよう!」というのを決めて、その中でも美味しそうなお店をいくつかピックアップし、30通くらい手紙を書きました。

”ビザ無し日本人女子、フランス料理が大好きで、あなたの料理を学びたい!給料と住む所をください!”みたいな内容です。


― 30通!すごい数ですね。

30通出しても返信来るのは3通くらいですけどね。
その中から電話してお店を決めて、移動する、みたいな流れを繰り返していました。滞在中はプロヴァンス、ブルゴーニュ、バスク、ブルターニュ、アルザスと、ぐるっと回りました。

最後のアルザスの時に、勤務先のシェフがフォアグラ料理のコンクールに出場させてくれました。

いい経験になるな~、くらいの軽い気持ちで参加したら、銀賞をとって新聞にも載っちゃって!まさかそんな賞を獲れるとは思わず、私が一番驚きました。

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店内には実際の新聞記事と、可愛いガチョウのトロフィーが。

結局26~30歳までの3年半、一人でフランスに滞在していました。
その頃はフランスの生活が心地よすぎて、もう日本帰らなくてもいいかなーとも思ってましたね。


― 日本に帰国したキッカケは何だったんでしょうか?

日本にいる先輩から「仕事があるから戻ってこない?」と言われたことです。帰らなくてもいいかなと思っていた矢先の出来事で、人生ってちゃんと出来てるんだなぁと実感しましたね。
帰国して、フォーシーズンスに入社しました。

3年目くらいで、また『海外行きたい欲』がうずいてしまい…。
まだ行ったことのないイタリアの世界が見たくて、上司のイタリア人に相談したら、色々紹介してやると快諾してくれました。

イタリアに行く準備を進めている途中、長男を妊娠しまして。
生まれる前に行ってしまえ!と、妊娠5ヶ月の状態でイタリアのナルニに行きました。親には妊娠を隠して行ったので、帰国した時の大きいお腹を見て、すごく驚いていました(笑)


― イタリアではどんな生活をしていたんですか?

まずアパートをゲットして、そこを拠点に小さな村の中を食べ歩いて回りました。お店のシェフに「あなたのところが一番美味しかったよ!」と言うと、だいたいは「俺が一番かぁ!よしよし教えてやるから毎日でも来い!」みたいな感じで歓迎してくれましたね。ゆるっとした街の中の食堂みたいなところで、パスタやリゾットを教えてもらいました。

最終的に、"ペディ ビュス ジャンビュス"のお父さんが、わざわざフランスからキャンピングカーで「迎えに来たよー」って来てくれたんです。
色々な場所に寄り道しながら10日間ほどかけて、アルプスを越えてフランスに行き、帰国後に長男を出産しました。

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― 出産後は、またホテル勤務に戻ったんですか?

そうです。8年くらい続けました。大企業の恩恵を受けて、育休・産休を2回ずつ取らせてもらってから退職したので、トータルだと10年程勤めましたね。

ホテル退職後は、知り合いが自由が丘にお店を出すから働かないかと誘われ、そこで2年程。その後、この場所に『branch』が出来て、そこが終わって、今の『pedibus jambus』に至ります。

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― ホテル勤務で良かったことなどはありますか?

外国の有名な3ツ星シェフたちが、定期的にホテルに来てくれたことですね。一年に1、2回来日して、色々なフェアを開催するんですけど、その時に自分たちの技を見せてくれるんです。

わざわざ海外に行かなくても、その場で一流の技を吸収できました。
そんな人たちの技を少しずつ学びながら、勉強ノートのページを増やさせてもらいました。
当時から書き溜めたノートが、家にたくさんありますよ。

そういった一流と呼ばれる人たちは、みんな共通して人が良いと言いますか…精神が素晴らしいんですよね。人として基本ができているな、と感じました。


― 仕事として料理をやろうと思ったのは何故ですか?

私はすごく食いしん坊で、作るよりもっぱら食べる専門でした。
高校の時はバイト代を使って、同じ食いしん坊の友達と食べ歩きしていました。

三崎にマグロを食べに行ったり、制服のまま銀座でおでんを食べたり…。
そんな自分が、まさか料理の道に進むとは思ってもいませんでした!
最初は外国に行く手段として始めた料理が、すごく楽しかったんです。


― 料理のどういった部分が楽しいと感じたんですか?

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お客さんの「美味しい」が、自分の「嬉しい」

作っていく過程ですね。まるで実験のような毎日でした。
何度も何度も繰り返すうちに、「だいたいこうすればこんな味になる」みたいなのが、わかってくるようになるんですよ。

私は全て感覚でやるタイプだから、同じ味にならないこともよくあります。
100%完璧に同じではないけど、それはそれでいいかな、と思っています。

あとは仕込みが好きですね。
仕込んだものをお客さんが食べて、美味しいと喜んでもらえることがなにより幸せです!

一時期勤めていたフランス料理屋がすごくヒマだったんですけど、ヒマほどツライものはないなぁと実感しました。

食べてくれる人がいないと仕込みも出来ないし、一生懸命作ったものを自分たちで食べなきゃいけないのって、本当に悲しいし、ツライですよ。


― 20代・30代・40代と年齢を重ねる中、それぞれどんな10年間でしたか?

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その時その時を全力で生きてきた。

20代はとにかく勉強の時期で、日本でも外国でも色々な場所で色々なものを吸収していました。

フランス時代、最初はフランス語なんて全然喋れないから、自分より年下の見習いの子たちが言った言葉を何度もリピートして、子供みたいに覚えていきました。

料理のことはその子たちよりも自分の方がわかっているのになぁ…と、複雑な想いがありましたが(笑)
怖かった銀座のフランス料理のシェフから始まり、吸収する10年間だったと思います。

30代は仕事と育児のバランスがきつかった時代ですね。
夫はシェフとしてフルで働いていたんですけど、私はなかなか…。
ホテルのシェフ一歩手前まではいったんですけど、子供がいるのでディナーの時間帯まで働けず、その先に進めなかったんです。
それがものすごく歯がゆくて、でもどうすることもできず、きつかったですね。

このお店を始めた40代。
ホテルみたいな設備・食材・スタッフも無い中、自分ひとりでやらなきゃ行けない状況で、どうするか試行錯誤の日々でした。


― 限られた設備や条件でやる中で、学んだことは?

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やってみれば、どうにかなる。

ホテル時代の持っていた常識をすべて捨て去って、「こうしなきゃ」を崩すことですね。

これしかないんだから、やるしかない。
開き直ってしまえば、意外とどうにかなりました。

他人がどう言おうと、私はこれでいけばいい!と、自分のスタイルを崩さずに貫き通しました。


― 学んでいる時は、自分の中でどんな感情が一番大きかったですか?

ツライも楽しいも、どっちもですね。ツライことは多かったです。理不尽に怒られたりとか、やり方間違えると焼いたトングで腕掴まれたり…今じゃ考えれないパワハラの嵐!周りの友達は合コン行ってるのに、なんで自分はデッキブラシで床磨いてるんだ!と思ったこともあります。
まぁお陰様で、今じゃ大抵のことは耐えられるようになりましたよ。


― そんな中でもめげずに乗り切れたのは何故ですか?

やっぱり、楽しかったから。
ツライより、楽しいっていう気持ちのほうが勝っていました。

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料理は、楽しい。

あと、負けず嫌いなんでしょうね。
先輩になにか教えてもらおうとする時、「あれやったのか」「これやったのか」と言われるのを見越して、事前に全部終わらせてから聞きに行っていました。

楽しくないと、料理の世界は続けられないと思います。


― 自分の料理の特徴を一言でお願いします。

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『ざっくり&あったかい』です。
ホッとする感じというか。
オシャレできらびやかな料理ではないけれど、美味しければいいよね!みたいな感じ。

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手書きのメニュー黒板からも、あたたかさを感じる。


― 料理を仕事として目指す人へ、メッセージやアドバイスはありますか?

好きならいいんじゃない?好きなことをやりなさい!

あと、固定観念を持ちすぎず、頭は柔軟なほうが良いですよ。
『シェフがこうしていたから、必ずこういうやり方じゃないといけない』と決めつけず、まずはやってみることが大切かなと思います


― これからやりたいことは?

夢は印税生活!
自由が丘のお店の時、自分でレシピ本を作ってみようかなと思ったことがあって、実は土台まで作ったんです。
作ろうと思えばすぐできる…かも?
もしそういったお話があれば、ぜひお願いします(笑)

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いつかこの本が発売されるかも…?

あとは、ターシャの家(※)。すごく憧れています。
何でも自分でつくっちゃうような、素敵なおばあちゃんになりたいです。」

※ターシャ・テューダー(Tasha Tudor)
アメリカの絵本画家・挿絵画家・園芸家・人形作家。
50歳代半ばよりバーモント州の小さな町のはずれで自給自足の一人暮らしを始め、19世紀頃の開拓時代スタイルのスローライフな生活を営んだ。


― ありがとうございました。

取材後、お料理を振舞っていただきました。
決して気取らない、でも特別感があって、どれも本当に美味しい…!
次は一人のお客さんとして、食事に行きたいと思います!

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【店舗情報 
pedibus jambus (ペディビュス ジャンビュス)
〒153-0052 祐天寺2-15-8
(下記に移転しております)
〒108-0071 東京都港区白金台3-18-5 庭園美術館の向かい側
TEL:070-3810-9947

※おひとりでお店を回しているため、営業中は電話に出られないことが多いです。
※ランチのご予約のお席は承っておりません。

【営業時間】(変更する場合もございます。)
平日/ 10:00〜17:00・土日祝/ 11:00〜17:00
定休日:不定休(インスタグラムをご確認ください。)

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・Instagramhttps://www.instagram.com/naozo755/


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