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「既にもう死んでいる側のわたしたち」/川島結佳子『感傷ストーブ』

川島結佳子『感傷ストーブ』評
吉田恭大  

「お前はもう、死んでいる」とか言いながらあなたと食べる胡桃のゆべし
「大人しくするにゃあ」という。ガタガタと反抗をする猫に向かって

楽しい歌かもしれない。だが、面白い、笑った、と感想を述べるときの私たちは大抵真顔である。そしておそらく作り手も。
楽しいことを無邪気に言ってみせるには、社会はあまりに治安が悪くなってしまった。とはいえ治安の良かった頃などそもそも知らない。
ささいな台詞を括弧に括り「言ってみせる」こと。それは、素の演技じゃないですよ、天然じゃないですよ、という真顔の主体のための安全装置として機能する。

「芸人になりたい」と言ったラジオネーム感傷ストーブは今何してる 
ラジオから「うんそんですよ、うんそん」と空気の音もしない夜更けに

歌集前半に深夜ラジオの歌、深夜ラジオのテンションの歌が多い。なるほど、この世界は「夜組」なんだ、と得心がいった。
『夜組』。劇作家の山本健介が2016年に上演した同名の公演の中で、深夜ラジオのリスナーやその周辺を指してそう呼んだ。
人々はラジオネーム同士で他者の存在を知覚し、職人などと呼ばれる投稿者たちは昼間の社会や経済と離れた独特のコミュニティを形成する。
ラジオの投稿は、おそらく短歌の投稿よりもさらに孤独な営為だろう。

右膝を強打したのは募金箱無視したからだ。天罰なのだ。
違法ではなく不適切 浴びるほどお冷やを飲んでルノアールにいる

夜組の視点のままに日中の価値観に晒されて暮らすのは大変なことだ。天罰が下ったことはわかる。適切でないことはわかる。でもその理由は分からない。昼間の暮らしの中で感じる若干の不条理や違和感。
大げさに言えば、それを言及し、受け入れること(あるいは受け入れたという演技をすること)自体が、日常の不条理への反逆に繋がる。

お賽銭入れてひたすら神頼み頼むというより脅しに近い
住めば都と思ってほしい生来の事故物件の私のことを

自虐と共感の間隙を縫って届いた歌に、真顔で面白かったと言う。向日性の無邪気な面白さ(それは時に暴力の形をとる)ではなく、自分を腐すための露悪的な風刺でもない。
作中の諦念とささやかな自嘲に釣られて、笑ってしまった、と言うとき、私たちにあるのは隠れキリシタン同士のような後ろ暗い連帯かもしれない。
昼間に息を潜めながら。

(孤独死でいいよ。もう寝る。)ザル状の陽射し差し込むフローリングに

(短歌研究2019年11月号掲載より加筆修正)  


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