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戦争への反省。科学や学問の中立性とは?

中立の軸をどこに置くのか、いつもとても気になっています。

科学や学問の中立性について議論するときに私が非常に大切だと考えているのは、かつて日本が経験した戦争への反省であり、その時、日本の科学者や学問や教育に何が起こったのか、それが戦争や国民の生活にどう影響したのか、何をもたらしたのかです。

科学者・技術者は自分の研究・開発結果がどのように利用されるか無頓着でいることは許されないというのが私の考えです。科学者や技術者は自分の研究や技術開発に対して社会的・倫理的な責任があると思っています。これは「研究に価値があるかないか」の議論と混同してはいけない議論だとも思っています。

社会的・倫理的な責任があるとはどういうことでしょうか?

世界の人々は今まで戦争や、差別や、独裁などと幾度となく戦い、反省し、乗り越えながら到達した到達点があります。その例が「世界人権宣言」であり、「日本国憲法」であり、最近の例では「核兵器禁止条約」であると思います。

今も世界では戦争や差別が続いています。しかし、戦争や差別は良くないもの、止めるべきものというしっかりとした世界共通の倫理観は、世界でその速度にばらつきはあるとしても、世界の市民の中に一歩ずつ着実に定着しつつあると思います。

科学・学問・教育はその先頭に立つべきものなのだと思います。だから私は、科学・学問・教育の中立性を語るときに、「戦争」や「差別」に加担するスタンスと「平和」や「平等」に貢献するスタンスの間での「中立」はあり得ないと思っています。

学術会議や学会や大学などの運営はもちろん民主的である必要があります。そして政治・宗教・経済などいっさいの外的権力からの干渉・制限・圧迫を受けることなく活動でき、自分たちの研究や技術開発に対して社会的・倫理的な責任を持つことが求められていると思います。

これがかつての戦争や世界情勢などから学ぶことのできる科学や学問の中立性ということではないでしょうか?

マスコミも報道を通して科学者・技術者のおかれた環境や動向を報道し続けてほしいと思います。マスコミもある意味科学や学問と同様、外的権力からのあらゆる干渉を受けず、また社会的・倫理的な責任を負って報道に取り組むべきで、科学や学問と共通するところがあると思います。


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