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平清盛があんなに偉くなったのは、出生に秘密アリ!?【3/4は平清盛が太政大臣になった日】

本日、3月4日は、平清盛が太政大臣に就任した日(1167年、旧暦では2月11日)です。

平清盛とは、安徳天皇の外祖父として大和朝廷に君臨し「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるまでに勢力を築きあげた、歴史上の傑物です。

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この清盛が太政大臣という、朝廷における最高職に就いたのが1167(仁安2)年の今日(旧暦では2月11日)なのです。

この就任は、じつに意味がある政治劇でした。なぜなら、この太政大臣という職は、天皇にも影響を与えるほど強大な権力を持っており、藤原氏など一部の人達しかなれませんでした。しかし清盛は、武士の出でありながらこの職に就いたのです。

武士が太政大臣になるなど史上初のことで、これにより武家政権が確立していくようになります。つまり、武士が世を統べるようになる下地がここでつくられた、いわば歴史の転換点でした。

では、なぜ清盛はそんなに出世したのでしょうか。平家の流れから見ていきましょう。

白河法皇の後ろ盾で躍進した平家

平家はもともと、桓武天皇の第5皇子である葛原親王の後胤の流れを汲んでいる一族です。
同族には、日本三大怨霊のひとりとして有名な平将門などがいることからわかる通り、当初は関東に根を張っていました。
しかし、この平将門の乱など、同じ平家同士の争いが絶えず、関東で政治の実権を失ってきます。ですがその一方で、乱の鎮静にあたった平貞盛の子・惟衡が、その功績から伊勢守となり、伊勢国で勢力を伸ばしました。いまの三重県にあたる地ですね。
この惟衡の流れを汲むのが、清盛の出自にあたる伊勢平氏です。(伊勢平氏の家紋・揚羽蝶▼)

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やがて時代が下って11世紀頃、伊勢平氏は大きな武士団となっていましたが、当時は武士団でいえば源氏の権力のほうが大きく、その下に位置付けられていました。
そこで、清盛の祖父にあたる正盛が思いつきます。源氏が朝廷の摂関家を後ろ盾として権力を誇っていたのに対し、正盛は、院(上皇・法皇)に近づいて権力を伸ばそうとしました。やがて白河法皇の後ろ盾を得ることに成功。そのおかげで中央政権に取り入ることができたのです。

異例の出世スピードだった清盛

平家の立場が盤石になったのは、清盛の父である忠盛の頃です。彼の海賊討伐の功などによって、鳥羽上皇の院政時代に篤い信任を得て、中央政権内に深く根を張ることができました。清盛は、祖父や父によって築かれた地位や経済的基盤を引き継いで、さらに中央政権内で出世していきます。(清盛の父・平忠盛▼)

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ここで清盛の出世ぶりを見てみましょう。
清盛は12歳のときに元服を迎えて、一人前の武士として官位を賜りました。このとき、普通は三等官の「尉」を賜りますが、なぜか清盛だけは従五位下左兵衛佐という官位でした。つまり二等官の「佐」です。元服のときから同期よりも立場が上だったのですね。

さらにその後も出世はトントン拍子で続き、先述した忠盛の海賊退治の際にも、父親の功にもかかわらず清盛も昇進して従四位下になりました。またその後に怒る保元の乱においても清盛は播磨守に任じられていますが、これも一番活躍していた源義朝よりも手厚い恩賞でした。

こうして見てみると、なんか清盛だけ都合が良すぎる感じがしますね。当時の偉い人から贔屓されているような印象をどうしても受けてしまいます。

ここで興味深いのが、本当に贔屓されていたとする説が囁かれているのです。

白河法皇の隠し子だった説

清盛が朝廷内で厚遇されていたのは、一説によると、なんと彼が白河法皇の御落胤だったというのです。(白河法皇▼)

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その根拠が平家の栄枯盛衰をいまに伝える軍記物『平家物語』に書かれています。
巻一・祇園精舎の項には、清盛は忠盛の嫡子として語られていますが、巻六・祇園女御の項では、「ある人の申しけるは」(ある人が言うには)という前置きがされてから、白河法皇が寵愛した祇園女御から生まれたということが書かれているのです。いったいどういうことなのか、記述を下に要約してみました。

ある雨の日、法皇が祇園女御のもとに向かう途中、前方に鬼のような姿の怪物が現われました。白河法皇の護衛をしていた忠盛は、その怪物を射殺するよう命じられました。ですが忠盛は冷静に怪物を観察して、その正体が老僧だと見破りました。
お坊さんへの誤射を未然に防いだ忠盛の冷静さに感銘を受けた法皇は、忠盛に祇園女御を賜ったのでした。
しかし、祇園女御はその時にはすでに法皇の御子を身ごもっていました。妊娠していることを知っていた法皇は、生まれた子が女の子であれば法皇の子として育て、男の子ならば忠盛の子、つまり武士の子として育てるように忠盛に言いました。
そして生まれた子は男の子でした。そのため、忠盛はその子を引き取って平清盛として育てたのです。

ちなみに清盛という名も、忠盛が白河法皇から賜った歌の一節「末の代に きよくさかふる」に由来しているそうです。もうズブズブの関係ですね。

母親が祇園女御の妹であるという説も

上記の説に異を唱える考えもあります。
明治期の歴史学者である星野恒は、清盛は祇園女御の妹の子と主張しました。
氏によると、『胡宮神社文書』にある、祇園女御の妹についての記述が根拠だそうです。

院に召されて懐妊の跡、刑部卿忠盛に之を賜い、忠盛の子息となし清盛と言う、仍て宮と号せず

読んで字の通り、妹は忠盛とデキて清盛を生んだ、というモロの記述ですね。
これを以て、星野氏は妹説を主張しました。

歴史書の記述を見ると、明らかに法皇のご落胤だった清盛ですが、果たして真実はどうだったのでしょうか。当時はこの出生について公然の秘密となっていたのでしょうか。冒頭で述べた、武士の出でありながら太政大臣になれた、というのもこの出生の秘密が関係しているのかもしれませんね。

歴史の真実を問われれば、断言することはできませんが、非常に面白いテーマですね。

参考資料:

『本当は偉くない?歴史人物 日本を動かした70人の通信簿』八幡和郎(ソフトバンク・クリエイティブ)
『平清盛と平家のひとびと』井上辰雄(遊子館)
『謎とき平清盛』本郷和人(文藝春秋)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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