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これからのために写真はプリントして残したいなぁとか

わたしが生まれた頃はもう既に世の中にデジタルカメラが登場していたけれど、それでもやっぱり一般家庭ではフィルムカメラが主流だったようだ。両親もわたしたち姉妹の写真をたくさんフィルムカメラで撮影していた。自宅にはミノルタのオートフォーカス一眼(もう使えないけれど)があって、たくさんの現像ネガと、プリントした写真を入れたアルバムが今も大量に本棚に並んでいる。子供の時は空のフィルムケースにビーズやキラキラした石なんかを入れて遊んだりもした。

時々アルバムを見返すと、わたしの知らない世界がたくさん残っている。生まれたての宇宙人みたいなわたしだったり、セーラームーンのスティックを持ってポーズを決めているわたしだったり。母は聖子ちゃんカットだし、父なんか今とは想像つかないくらいほっそりしていてちょっとイケメン。笑

妹が生まれたあとは、入院が続いていた妹の病院の子供用プレイルームで遊んでいたり、2人でぬいぐるみにまみれて寝ていたり。全く記憶にない自分や家族の姿を見ることができて、何回観ても新鮮な気持ちになった。

小学校の遠足や修学旅行は、みんな「写ルンです」を持参した。中学校ではちらほらデジカメを持ってくる子もいたけれど、やっぱりまだ子供には持たせられないのか、大半が「写ルンです」だった。時々自分の指が写り込んだ写真なんかもありつつも、仲の良い友達との2ショットがたくさん残っている。

学校の先生が撮った写真は学校の廊下に番号を振って貼り出されて、欲しい写真の番号を書いて出すと焼き増しして買うことができる。自分が写った写真と、こっそり好きな男の子が写った写真を注文してたなあ。エモい。今でも廊下に写真とか貼り出したりするんだろうか。そんな写真たちも、写真屋に現像に出すともらえるペラペラの薄いアルバムに入れて、今でも実家のわたしの部屋に置いてある。

高校に入ると初めて携帯電話を買ってもらった。携帯ならいつでもどこでも、気軽に写真が撮れる。大抵の友人も高校から持ち始めたから、学校の教室で、部室で、帰り道の駅のホームで、よく写真を撮っていた。修学旅行は親のデジカメを借りて鮮やかな北海道の景色をたくさん撮った。大学生になって初めてアルバイトして貯めたお金でデジタル一眼を買って、写真の世界にのめり込むようになった。

明らかに高校生になってからの撮影枚数の方が多いはず。いつでも撮れちゃうし、フィルム残数なんて気にしなくていい。交友関係も行動範囲も広がって、たくさんたくさん記録に残した。

なのに、記憶に残っている写真は数えるほどしかない。

もちろんPCのフォルダを覗けばデータはある。たぶん。インスタやfacebookのアカウントも残してるから、アルバムにも入ってるはず。あ、でも、高校生の頃流行ってたmixiに入れてた写真はもうない。なんなら今使っているPCを買う前に撮った写真なんてそもそもデータすら残ってないのでは?

こんなんだから、高校時代の写真はほとんど消えてしまった。データとして今残っている写真たちも、いつでも見返せるはずなのにほとんど見返すことがない。

大人になったわたしがすぐに思い返せる写真はプリントして形に残している写真だ。実際には見たことのないはずの両親の結婚式での笑顔や、妹が洗濯かごに入ってぬいぐるみのミッキーの鼻をかじっている姿や、中学の修学旅行で初めて乗った新幹線でお菓子を食べている友人の顔。

それよりもずっと最近のはずの、高校や大学時代の写真で思い返せるものはほとんどない。かろうじて思い返せるのは、わたしの誕生日に友人たちが作ってくれた手作りアルバムに使ってくれている写真たち。やっぱりプリントして形に残してくれている。

理由は簡単、何回も何回も、理由はなく気が向いたときにアルバムを開いて見ていたからだ。

結局のところ、データ化しただけの写真なんて、ほとんど見返さないのだ。そりゃ今は昔と違って、InstagramやtwitterみたいなSNSツールもあるし、写真管理アプリもたくさんある。PCのフォルダやクラウドに大量に写真を保存している人も多いはず。見ようと思えば、いつでもどこでもすぐに見られるだろうけれど、それ、10年後も見れますか?20年、30年後、自分の子供や孫に見せてあげること、できますか?

写真が全てとは言わない。頭の中には思い出が残っているから、写真がなくなったからといって思い出も消えるわけじゃない。だけど、人間は忘れる生物だ。「修学旅行で北海道に行った」という事実は覚えているけれど、残念ながらそこで見えた景色の美しさとか、友達とふざけてはめた顔パネルのおもしろさとか、おいしいご飯を食べているときの幸せそうな表情とか、そんな細かい景色は覚えていなかったりする。そういう小さい景色は写真には残っているし、記憶から落ちていても写真を見るだけで波紋のように記憶が蘇ってくる。

わたしにとって、そういう「小さい景色」が何よりも大事だし、だからこそ普段から意識的に写真に収めるようにしている。そして必ずプリントをする。お金はもちろん、手間もかかるけれど、きっと大事なことなんだと思うから。

少し前、実家の押入れを片付けていたら、小さい箱に入ったモノクロ写真が大量に出てきた。わたしは会ったことのないひいおじいちゃんが撮った実家周辺や大阪、京都の景色が写っていた。多分大正の終わりから昭和のはじめくらいかなあ、と父。

実家の周辺はなにもない野原だった。近所にある小さな神社の鳥居だけがぽツンと写っている。見覚えのある鳥居が白黒の世界に存在している。100年以上も前も同じ場所にずっとあることが不思議だった。大阪は開発が始まったころのようで、沼地と思われる場所のすぐそばで大きな木材を運ぶ姿の人たちが写っている。多分このあたり、学生時代よく買い物してたあたりだなあ。

ほかの写真には、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんと思われる人が写っていた。さらにはひいひいおじいちゃん?と思われる人もいた。両親も会ったことがないから分からないけれど、あ、と直感で分かった。

そのとき、写真は残さなきゃ、と思った。今当たり前のように見ている景色とか、街の様子とか、わたしの家族や大切なひとたちの今を、データじゃなくて、ちゃんと形にして残さなきゃ。そしてまだ不確かな将来だけど、いつか自分の子供や孫ができたとき、見せてあげられるように。わたしの大事な家族や友人にそういう存在の人が出来た時に、見せてあげられるように。

SNSやクラウドは今後すぐになくなることはないだろうけれど、すぐに代替わりする。100年も経てばなくなっているかもしれない。でも、形に残して大切にしておけば、きっと会うことはないであろう100年、200年後の人たちの目に触れることがあるかもしれない。かもしれない、だけど。でも、そんな「かもしれない」を大事にしたいと思って、写真を撮っている。

「いつやっけ、もうすぐお札の顔が変わるんだよね。変わるときは今のお札、アルバムに挟んで保管しとこう」といつか彼が言っていた。

「いつか子供に「これが昔のお札やで~」って言えたらいいやん」という彼をみて、こういう考え方をする人、すごく好きだと思った。わたしはそんなあなたの変顔もしっかり写真に残して、「これが昔のパパやで~」って言えるようにしとくね、と思いつつ。




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