シン・エヴァンゲリオン感想

 シン・エヴァンゲリオンを見てきた。以下、ネタバレを含む感想なので、見たくない人は回れ右してブラウザバック推薦。






















































 結論からいうと凄くよかった。

 見に行く前は正直そんなに期待してなくて、あと1作じゃ畳めないだろうしまた放り投げるのではとか、どうせパチマネーで続編が発表されるのではとか、とはいえここまで付き合ってきたアニメだしなあとか、期待半分惰性半分くらいの心持ちだった。
 人が多そうだから初日を避けたくらいには、大したモチベではなかった。
 でも、実際のところ大変よかった。ボクがエヴァンゲリオンという作品に期待していたものは大体表現されていた、と言っていい。
 エヴァンゲリオンが数多くのSF作品のオマージュから成立されていることを踏まえて、この映画を喩えるなら「幼年期の終り」ならぬ「思春期の終わり」とでも言ったところだろうか。

 旧劇エヴァは、身も蓋もない表現をしてしまえば、「テレビシリーズで話を盛り上げるだけ盛り上げ、勢いよく冷や水をぶっかけて『いい加減アニメの世界だけに留まってないで外出しろ』と説教しまくる二次元カウンターアニメ映画」だ。
 激怒される方がいるかもしれない、でもボクはそういう認識なんです。異論は認めます。
 そして、その尖りまくった作風故にわかりやすい話に帰結できず、剥き出しのポエムを洪水のようにぶつけてきて勝手に自己満足して終わってしまった。だからファンの意見の多くは「いい加減にしろよ庵野秀明」だったし、ボクが求めていたものは「『最低限』わかりやすい形での物語の決着」だった。
 この『最低限』というのがミソだ。ボクはエヴァにわかりやすい話はそんなに求めていなかった。エヴァ破はわかりやすくて凄くよかったし、傑作映画だと思うけど、エヴァ映画の決着に求めるものはわかりやすいエンタメではなく、当時ボクの心を強く惹きつけて止まなかったカルト的なサブカルチャーとしての決着だ。
 作中、何度も登場人物が「落とし前を」「落とし前が」と言っていたが、もうあれ狙ってやってただろ。ボクが求めていたのも、エヴァという作品性を壊さないままの、物語としての「落とし前」であった。

 そして、ボクが求めていたエヴァンゲリオンとして、シンエヴァは十分なアンサーを返してくれた。わかりやすい話を求めていたわけではなく、ポエムの洪水を求めていたわけでもない。エヴァンゲリオンというアニメ作品の「落とし前」として。
 映像作品として最低限語るべき設定は回収したし、碇シンジの物語としての決着も描かれていた。「エヴァらしさ」、つまり「オタクの社会との向き合い方」というテーマにも、しっかりと「落とし前」をつける形で。

 繰り返すが、ボクにとってのエヴァはオタクに説教する作品だ。
 なにせ、ATフィールドは心の障壁だし、「他者を怖がり、ちゃんと話せない人たちが、勇気を出して対話を試みる物語」だ。
 ちなみに、ここで言っているオタクとは、平成でシンボライズされていたオタクという記号であり、市民権を得てきた現代のそれではない。引き籠もりとか、陰キャとか、そういう風に喩えてもいいだろう。このまま平成に置き去りに去れていく考え方かもしれない。そっちの方がいいとも思う。
 要するに、「社会が苦手な人たち」へのメッセージ性が強い作品であり、どこか陰気で鬱屈とした主人公を描いたアニメであり、現実と向き合う作品だった。
 画面越しに現実へと語りかけてくるような、虚構との境界が曖昧な作品で、だから旧劇時代から実写演出が多く使われるし、シンエヴァでも初号機と13号機の戦闘シーンではまるでフィギュアがジオラマで戦っているかのような演出がなされた。単に監督が特撮オタなだけだって? いやまあそれもあるだろうけど……。
 とりま、この虚構と現実の狭間に落とし前を付けるため、新劇エヴァで新たに投入された登場人物――それが真希波マリだと、ボクは思っている。

 マリについては、庵野監督が奧さんに重ねてるとかいろいろ言われてるけど、ボクは違うと思う。いや、ちょっとはあるかもしれない。どうなんだろう。違うと思うな。
 ボクが思うに、マリは大人になったオタク=旧劇からのファンのメタファーだ。
 だから、コミックで都合良く設定を付け足され、世界設定の裏側を知っている事情通として登場し、シンジやアスカといったエヴァの登場人物を愛するように生まれてきた。作品を俯瞰する、イスカリオテのマリア(=聖母)という、メタ的な立ち位置として。
 そしてこの作品の主人公である碇シンジは、子供の頃のオタクだ。これまで散々画面越しにポエムをぶつけてきた対象だ。
 終盤、新しい槍をつくり出す際に、この映画はオーバーラップという単語を強調する。旧劇と新劇、子供になった自分と大人の自分。この単語こそが、この映画のテーマなのだとボクは思った。

 最終的にシンジは、アスカとレイとカヲルに別れを告げることになる。アスカとレイとカヲルは、つまりエヴァの亡霊であり呪縛だ。オタクにとっての元攻略対象であり、元恋人だ。
 シンジは、彼女たちに別れを告げ――そのまま自己犠牲による孤独とともに話を終える――かと思っていたところに、長年オタクが待ち侘びていた奇跡が介入して、ご都合的なハッピーエンドを迎える。まるで、エヴァの完結を長年待ち続けていたオタクへのご褒美、と言わんばかりに。
 話が完結したシンジは、一人渚で黄昏れ、絵コンテ=アニメの世界に返っていく。旧劇エヴァのテーマ性のままであれば、このシーンで終わってハッピーエンドとなれたかもしれない。「綺麗な旧劇エヴァンゲリオン」だったかもしれない。
 でも、新劇エヴァは旧劇とは違う。ここで、絵コンテの世界に新たな存在が介入してくる。マリである。作中、マリは何度も言っていた。「必ず迎えに行く」と。
 リビルドされたエヴァンゲリオンは、アニメをアニメとして綺麗に終わらせるのではなく、かつて旧劇でそうしたように、再び現実世界とレイヤーを重ねてオーバーラップする。視聴者の代わりであるマリが介入して、再生された世界へともに帰っていく。
 大人のオタクが、アニメの世界に侵蝕することを許容するのである。

 そして訪れるラストのシーン。
 おそらくだが、このシーンは「君の名は。」のオマージュ的意図があるのだろう。何故なら、「君の名は。」は、近年の大衆向けSF映画の大ヒット、つまり「最近の代表作のアニメ」だからだ。だから、大人になったシンジの声は、神木隆之介氏だった。
 エヴァンゲリオンという作品には、「さよならジュピター」という古典SF作品の影響が強く見られる(トップをねらえ!もなんだけど) そしてシン・エヴァンゲリオンでは、この映画の主題歌を挿入歌として流して、これが歴史的なフィクションの文脈の上に成り立っているという主張をより強くした。歴史のオーバーラップである。
 真希波マリ=大人になったオタクは、ずっと待ち侘びていた大人になったシンジをいい匂いがするといって喜び、ともにアニメと実写の狭間の都市へと帰っていく。現代名作SFアニメの皮を被って。

 シン・エヴァンゲリオンは、マリというオタクの代弁者がアニメ世界に入っていき、シンジを現実世界へと引っ張り出し、寄り添う形で結末を迎えた。
 旧劇では大人になるにあたって不要なものと否定していたフィクションを、新劇では肯定した形となる。
 それは、オタク文化が世間に肯定されつつある時勢の中での、妥当な落とし所なのかもしれない。そうでなくても、庵野監督は、制作陣は、べつにそこまで深く考えていないのかもしれない。
 だが、ボクの感想はこうだ。
 あの作品が描いたものは、他者を拒んでいた子供の頃の自分が、大人になった自分によって救済される物語であると。
 つまるところ、新劇エヴァとは、大人になってもその結末を求め続けた子供の頃の自分に対する、壮大なラブレターと成り得る映画なのだ、と。

 ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン。


*以上の感想は全部個人的見解です。若い頃のオタクに戻ったつもりで書いてみました。
*ネットに出回ってるネタバレコラ画像は秀逸すぎて笑ってしまった。あとサクラが喋るたびにQのスレを思い出して笑いそうになったのであれ書いたやつ絶対許さねえ

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