凪のように穏やかな瞳を得るには

学生時代、懇意にしていた大学教授がいた。「僕ね、大勢の前で講義をするのが苦手で。以前あんまりにも嫌で嫌で仕方なくて、そうしたらお腹を痛めて。講義前日に胃カメラをしたんです」数年前の夜、食事をしながら、その話を聞いてつい吹き出してしまった。あまりに先生らしいな、と思ったからだ。

どうも昔から、“頼りにされたがる”ひとたちが苦手で距離を置いていた(それでうまくいかなかった人間関係も多い)。

彼ら自身が苦手というよりは、彼らの顔、というより、表情が苦手だった。もっと言えば、彼らの“瞳”が苦手だった。

「いつでも相談乗ってやるからさ」という人間の瞳はいつもどこかブレていて、彼らがいう「お前はこういう人間だから……」というのは大概どうしても紋切り型の言葉でつまらなかった。見当違いで自己満足のお説教に、わが人生の貴重な時間を割きたくなかったのだ。

“誰かに頼りにされたい”とか、“たくさんの異性にモテたい”とか、“有名になって仕事がたくさん舞い込んでほしい”とか、そういう承認欲求によって自らの価値を定める人間は、どうしたって“他人の評価”に自分の全尊厳を委ねているという危うさを抱えている。

そういうひとの瞳は、いつも少し揺れている。

「先生は、先生になりたくてなったというわけではないんですね」。教壇に立つのが嫌だという教授は、しかしとても博識で(当たり前だ)、スマートで、なによりも、瞳が凪のように穏やかであった。「そうですね、自分がやっている学問が面白くて、それ以外の選択肢がありませんでした」。

「園田さんにはこういうところがあるから……」。教授が言う言葉はいつも新鮮で、図星で、“自分の言葉”であった。

自分と向き合って、きちんと見てくれるひとといるのは、やはり心地よい。“私を私以上にわかっている”ひととして畏怖の念も抱きながらも、その適度な刺激と心地よさを求めて、私はしょっちゅう教授を食事に誘っていた(先生は既婚者で愛妻家だ。念のため)。

教授は、ひとを見るひとだった。“自分がどう思われるか”よりも“自分がどう思うか”を選択したひとだった。“他人からの評価”よりも、“自分で考えること”を選んだひとだった。

大勢の前で話す教授は、レストランで弱音を吐いていたとは思えないほどに流暢に講義をしていた。ときに歌い出して生徒の笑いを誘うほどに(ずっとコーラスをやっていたのだ)。

仕事や人間関係に疲れたときに会いたくなるのは、そんな類のひとたちだ。もちろん、教授だけではない。脳裏に浮かぶのは、彼らの顔よりもなによりも、その穏やかな瞳。ぶれずに佇む瞳。

私がいま、喉から手が出るほどほしいものかもしれない。久しぶりに先生に会いたいなあ、と思いこうやって書きながら、以前「もう卒業したんだから、先生って呼ぶのはダメですよ」と言っていたことを思い出して、また笑ってしまった。

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