とんねるずをちゃんと擁護できる人がいない理由

 B級映画マニアという人々がいる。自分の好きなものを悪し様に言われると大体の人間は怒るものだけれど、例えばB級映画を観た人が「この映画は駄作だ!」と評したとしても、B級映画マニアの方々は怒らないどころかその意見を喜んで肯定することが多いだろう。それは「批判的意見も批評のひとつだ」と言った心の余裕からくるものではなく、そういうものだから魅力を感じるのであって、「その通りだ。だから面白い」と頷くだろう。もちろんマニアも一枚岩ではないしB級がB級たる所以も多種多様なので「駄作だ」と言われれば「B級ではあるがこれはこれで傑作なんだ」と返すマニアだっている。
 あえて質が低いものに魅力を見出すということは何も珍しいことではない。質の低いコンテンツを楽しむ人が、質の高いコンテンツを楽しめないわけでもない。あえて質が低いものを選ぶということがあるし、それは様々な要因も働いている。
 物事の魅力を理解して、能動的に選ぶにはそれを取り巻く文脈や作法を理解している必要があり、そこにはある程度の知識が要する。言い換えれば、自分が能動的にそのコンテンツを選んでいるときは(背伸びをしているとか見栄を貼っているとかの場合を除けば)、そのコンテンツを楽しむための文脈や作法、知識を携えているということになり、そういったものが必要なコンテンツほど、誰かの手元に届くときは往々にして能動的に選ばれた場合である。経済や精神や時間に余裕がないので質が低いものを選ぶ、ということもあるけれど、コンテンツの質が低い高いに関わらず「能動的に楽しむ」には文脈の理解や知識・作法の認識といった「素養」が必要なのだ。
 私はジャズやクラシックの楽しみ方がわからないし、パチンコの魅力も理解できない。スポーツ中継にも惹かれない。それは私にジャズやパチンコやスポーツ中継を楽しむための「素養」がないからだ。そして私にその「素養」がないからといって、では楽しめている人達より自分が劣っているのかと言われれば、私はそうとは思わない。「素養」の有無は何の優劣も発生させない。重要なのは、「そのコンテンツは素養なるものと結びついているか」という部分だと思う。なぜなら世の中には「素養があると楽しめなくなるもの」「楽しむのに素養を必要としないもの」もあるからだ。そして「コンテンツを能動的に楽しむには素養が必要である」ということは、つまり「受動的に楽しむコンテンツはおおよその場合、素養を必要としない」ということにもなりえる。

 とんねるずという芸人の笑いはテレビと密に結びついている。90年代以降のバラエティ、特にフジテレビのバラエティの在り方については「とんねるず的なもの」と不可分である。とんねるずが最も活きる舞台はテレビで”あった”し、テレビの外のとんねるずは存在意義すらない。私は高校時代にとんねるずのライブビデオ「こんといんなえば 10年の凝縮ライブ」を二本とも観ているけれど、どれもたいして面白くなかった事を覚えている。
 テレビ離れが加速しているとはいえテレビのメディアとしての強さは今でもかなり高い。それはテレビが受動的なコンテンツだからである、というのはもういちいち大宅壮一などを引き合いに出さなくてもみんなわかっていることだ。ではどういうことかというと、テレビ的なバラエティととんねるずのバラエティがイコールだとして、テレビが受動的なコンテンツ=「素養を必要としないコンテンツ」であるとしたなら、とんねるずのバラエティは「楽しむのに素養を必要としない」ということがわかる。『とんねるず』を『フジテレビ』に置き換えても良い。だからこそとんねるずはテレビと相性が良く、売れっ子になった。
 受け手の素養を必要としない状態で笑いを取る方法は二つある。「誰にでもわかっていること」を扱うか、もしくは「相手が”知っていない”ということを逆手にとること」だ。そして「相手が”知っていない”(正しい知識や丁寧な理解を携えてない)ことを逆手にとる」という手法でもっとも容易なのは「偏見を誇大化する」ことである。「受け手が無知であることを前提にしないと成立しない笑い」において、偏見や誤ったイメージを誇大化するのは鉄板なのだ。

 ずいぶんとチンタラしてしまったけれど、以前とんねるず・フジテレビが偏見を誇大化した時代遅れの某キャラを復活させて笑いを取ろうとしていたが、私は放送前、番組予告の段階からキツめの苦言を呈していた。差別的であることはもちろんのこと、そもそもシンプルに面白くないのだし、案の定放送後にはいろんな方向から理路整然とした攻撃を受けまくっていた。なぜそのキャラがいけなかったのか、というのは色んな所で説明・批評がなされているので今さら私はから何も言うことはない。
 とはいえやはり某キャラを擁護する意見も目立つようになり、そういうのが目に入る度に「地獄だな……」と思っていた。けれどここでひとつ気付いたことがあった。
 某キャラを擁護する意見のほとんどは「行き過ぎた配慮で表現を規制しようとするな!」とか「被害者ヅラするな!」「誰かへの差別なしで笑いが取れるか!(?)」等、『某キャラを糾弾している側への攻撃』ばかりだ。
 しかし、これは私の観測範囲の問題なのかもしれないけれど、擁護側からは「なぜそのキャラは笑いとして質が高いのか」「そのキャラはどの部分に、糾弾されないだけの正当性を担保しているのか」といったことを丁寧に説明したり、批評したりするような言説を見つけることができなかった。もしも某キャラを本当に擁護するのならば、その魅力や正当性をきちんと説明すればいいだけなのに(そんなものがあればだが)……と思ったけれど、できるはずもなかった。
「楽しむ素養」とは「それを適切に理解できていること」であり、説明や批評という行動はまず「理解」が追いついてないと無理なのだ。そうなると、前述のように「無知を逆手に取り、偏見を誇大化する笑い」というのは「素養」を必要としないので、素直に楽しんだ人間からすれば「理解」が追いついていない以上(むしろ理解の欠落によって引き起こす笑いなので)、「ならば魅力を正しく説いてみろ」と言われても、とてもハードルが高いのである。だから『糾弾する側への攻撃』でしか、某キャラを擁護する術を持てないのだ。
 逆に、某キャラを糾弾している側からすれば「なぜそのキャラがいけなかったのか」がマイノリティへの知識や文脈の面から理解が行き届いており(その全てがとも適切にとも言えないけれど)、「否定するための素養」がある程度出来上がっているため、様々な場所から批判の言説が上ってくる。また某キャラ自体、「適切な理解が及べば楽しめなくなる」という構造で成り立っているので、知識がある人からの芯を食った擁護の意見が出づらい。
 私はジャズやパチンコを褒める術を持てない。B級映画マニアは、B級映画を褒める術を持っている。褒めるのには技術が必要、というけれど、技術より以前に「素養」が必要なのだ。素養を要しないものは、まず適切に肯定することすらできないのだ。もしも能動的に選んだもの、素養を携えて選んだものが否定されたなら、それを否定するための言葉も持てるはずなのだから。
 よくないとされているけれど、自分ではそれを適切に肯定できないものを、楽しんでしまった自分から目を背けたい、という意思が、糾弾側への攻撃という行動に走らせるのかもしれない。

 ちょっととんねるずを叩きすぎたのでバランスを取るためにもちょっとだけとんねるずの「芸」を褒めてみる。90年代のとんねるずといえばテレビでの猛威が目立つけれど、何気に音楽活動の面、それもパロディの面ではとても面白い作品を多く残している。とんねるずと秋元康という組み合わせは今の時代こそ悪魔合体のような代物にしか思えないけれど、終始パロディ曲に徹したとんねるずのアルバム「ほのちゃんにはがはえた。」や「みのもんたの逆襲」はなかなかの佳作だと思う。パロディはとんねるずのお家芸であり、今回批判された某キャラ自体がマイノリティを悪辣にパロディ化していたものだけれど、某キャラとパロディ楽曲の質の違いは、後者が「素養があったら楽しめるパロディ」という一面を持っていたのも大きいだろう。気が向いたらでいいのでまた一度だけでも、今度は不要な偏見を持ち要らず、かつてのパロディ楽曲芸に立ち返ってほしい。とんねるずも、できれば秋元康も。
 

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スキのストリームに埋もれさせるにはもったいない、沢村の備忘録的マガジン。読んで「これはためになる~」「はぁーええ話や…」と感じた記事をまとめさせていただいています。

コメント (2)
私はたぶん素養が少ないですが、例えばあるアイドルを好きになる事って素養と本能の中間位なのではと思いました。
志村けんのコロナ闘病で同じ現象が起きましたね。過去のおっぱいやセクハラコントを懐かしむ声と、抵抗するフェミニストの温度差。フェミニストが攻撃された展開も同じ。これに関しては私のnoteのマガジン「フェミニズム」にまとめてあるので興味があったら読んでみてネ
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