いじめられっ子が逃げない理由

 中学1年生のころ、私はクラスでいじめにあっていた。原因は家が貧しかったからである。中学校から徒歩2分のおんぼろ借家に住んでいたからであり、おさがりの傷んだカバンを使って登校し、自転車を買うお金もないので友達と遠出もできなかったからである。
 私をいじめていたクラスメイトのSとYは不良として認識されていた。SとYのいじめの手段は主に暴力と暴言だった。暴言の内容は大抵家庭の経済環境を貶めるものであり、暴力は俗に『肩パン』と言われる、その名の通り肩にパンチをお見舞いするだけのものである。
 友人達は巻き込まれるのを恐れて助けてはくれず、教師に助けを求めても「じゃあやめるように言っておくよ」とは言うものの焼け石に水の状態が続く。それでも私は友人達を恨むことは一切なかったし、教師に期待することは半ば諦めていた。
 私が受けたいじめの話題はこの話においてさほど重要ではない。ここではちょっと詳らかにできないような被害も受けているのだけれどそれは割愛して、私が一時期不登校を検討するまでに至ったこのいじめが急速に終焉を迎えたのは、自分でも訳が分からない展開が起きたからだ。
 SとYは不良の中でも小者の部類であり、別のクラスには学年のボス格のような生徒・Mがいた。SとYはある日の休み時間、あろうことにMをクラスに引き連れてきて、Mさんのためにいいおもちゃ用意したんですよと言わんばかりに、Mに私をいじめるように煽ったのだ。
 暴力の引き出しが少ないのか、それとも中学1年生のいじめにおいて高度に洗練された暴力の手法なのかわからないけれど、Mは私に『肩パン』を始めた。私も友達も「ついにMにまで目を付けられてしまったか……終わったな……」というオーラを見せていたかもしれない。
 そっか、これから先ずっと、制限がない暴力が自分を襲い続けるのか。私も悩んで自殺とかするのかな。だったら今死のうが後から死のうが一緒だよなと思うと、苛立ちが募ってきたこともあって私の中で何かが吹っ切れてしまい、気が付けばMから一発肩を殴られるたびに、Mの二の腕を殴り返すという暴挙に出たのだ(私は机に座っていたので殴ろうにも立っているMの肩に手が届かず二の腕を殴る形になった)。
 これに一番驚いたのはMである。自分が一発殴るたびに、おもちゃだと思っていた相手が殴り返してくるのだから。
 するとどうだろう。肩がズキズキと傷んでたまらなくなったころ、Mは急に殴るのをやめて、あろうことか「おもっさん(面白い)な~。だー、友達になろう!」と言って肩を組んできたのである。
 それ以来、SとYのいじめがピタリと止まり、私の苦難の日々は終わりを告げた。Mはというと「友達になろう!」とは言ってきたものの私とMのそれからの接点といえば、廊下ですれ違うたびにMが笑顔で「おー、元気か!」と言って手を振ってくるぐらいだった。それで私がMに心を許したり感謝したりしたかといえばそうでもない。肩殴られてるし。不良嫌いだし。

 この話を通して私が言いたいことは「いじめられっ子はいじめっ子に玉砕覚悟で立ち向かえ!」なんていう短絡的なことではない。どう考えてもそんなことやったっていじめがエスカレートして深刻化するだけである。私の場合はたまたまネジが外れたアクションを取ったら、たまたま相手もネジの外れたリアクションをとったというだけで、あくまで「運が良かった話」であり、あの瞬間の自分に勇気があったとか、正しい手段を取ったとか、そういう認識は全く無い。なので誰にもオススメできない。
 けれど、「いじめに立ち向かう」のは本当に重要なことで、この立ち向かうという解決策には「逃げる」「頼る」という、最も重要で安全で効果的な方法も含まれている。自分一人で立ち向かうよりは、信頼できる大人を探し、逃げ場を確保し、ガマンの必要はない、逃げてもいいし、弱音を吐いてもいい、学校なんか無理に行かなくてもいい、頼ってもすがってもいいんだということをなんとか教えて、実践させないといけない。
 そう、「逃げる」「頼る」は何も恥じらうことじゃない。いじめから生き延びるためには正しい。圧倒的に正しい。そう誰が煽ろうと何を強いてこようといじめの中で苦しむより絶対に正しいのだ。みんな逃げろ!

 逃げないのである。
 ではなぜ、その「正しいこと」がいじめられっ子にはなかなかできないのか。どうして、自分の命と尊厳を守るための行動に、ためらいを覚えるのか。

 私はこれを「体力」の問題だと捉えている。それはいじめられっ子は身体が弱いとか、基礎体力が足りないとか、身体を鍛えろとか、力こそパワーとか、そういう脳筋的に単純な話ではない。
 頼れば、逃げれば、楽になれるかもしれないのに、苦しむとわかっていながらそれをせずにいじめの渦中に引きずり込まれてしまう悲しい子供がいる。どうしてなのか。まず、「頼る」「逃げる」という選択肢は自分が主体になっていて、能動的に自分から動かなくてはならない。そうなると、気力以上に必要とされるのは体力である。
 私が知っているいじめられっ子達は、「殴られたくなかったら、みんなの前で裸になれ」と言われて、ほとんどが殴られる方を選ばない。殴られるのはダメージがわかりやすいからだ。明らかに出血している人間が「安心してください、出てませんよ」と言ってもゴマカシが効かないように、身体的なダメージは自分が受けた被害としてはっきり認識できる。けれど尊厳を、精神を、ずたずたに切り裂かれるようなダメージは目に見えない。被害の規模が実感しづらい。そして人は、よりダメージが少ない方を当たり前に選ぶ。
 なので、いじめられっ子は“コスト”を考えた結果、精神的なダメージを受け入れてしまう。「そっちのほうが楽かもしれない」「楽しいことでも見つければごまかせるかもしれない」と思い込んでしまう。身体の傷なら治せるけれど心の痛手は癒せはしないとジュリーも言っていたように、心のダメージというものはそんなに単純な問題ではないうえ、どちらに転んでも理不尽な暴力を受けるような選択肢なんて、実際は天秤にかけることすらありえてはならないのに。

 「逃げる」のも「頼る」のも想像以上に体力がいる作業であり、かつ能動的な行動だ。何より未来が予測できない。いじめはいじめの内容分だけのダメージがくると想定できるけれど、「逃げる」「頼る」は結果がわからないのだ。主体的にやろうとするには、暴力で尊厳を奪われすぎた者からすれば、より刹那的なダメージが少ない方を選ぶことに慣らされてしまった身としては、ここで「その日のいじめに耐え抜く分以上の体力」を引き換えにするのは、あまりにもコストが大きすぎる“と思ってしまう”のではないか。だとしたらいじめられっ子は、「いじめに身を置くほう」を選んでしまうのではないか。そして自分では気付かないまま、心に深刻な傷を残し続けてしまうのではないか。気力も体力も尊厳も、あらゆるものを理不尽に奪われ続けたまま……。
 精神論ギリギリの話になってしまうけれど、気力と体力は密接に結びついている。ジョギングをすれば気持ちが前向きになるとも言うし、寝たきりの老人があらゆることにやる気を無くすという話もよく聞く。普段からいじめを受けて、気力をねこそぎ奪われている人間が、自分のためとはいえ体力を振り絞ることを選ぶ判断がそうそうできるだろうか。体力を牽引するのに、気力は必要不可欠なのだ。とはいえ身体を鍛えればいいなんて頭の悪い話ではない。大人だって過酷な労働環境で思考する体力も気力も奪われて過労死してしまう。スポーツ選手のうつ病も珍しくない。「やらなきゃ死んじゃうよ。ずっと苦しんだままだよ」と言ったところで、子供にそれが容易くできるだろうか。

 気力に体力に余裕があれば、こんなことにはならないけれど、今まさに苦しんでいる人間にそれを求めることが誰にできるだろう。
 だとすれば、いじめられている子に「逃げろ」「頼れ」と言うよりも、より余裕を持つ者が「逃がす」「守る」という道を選ばなければならない。
 やけっぱちになる以外には抵抗の手段を考えることもできなかった、元いじめられっ子はそう考えている。

 

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コメント (11)
コメント失礼します。
いじめられた側として、本当に共感できることが多々ありました。
学生はなんとからなるけど。社会人はもっと難しいよ。と。すいませんが思いました。学生のいじめは学校に行かなければいい。
昔いじめを受けていた者として、当たり前のことを言ってるだけだな、と思いました。この文章に対する否定ではなく。いじめられたことのない人は、こんなことも言わなきゃ分からないことなんだと思います。だから簡単に「逃げればいいのに」などという。そんな余裕があるなら逃げればいいし、そんな余裕がある人が助けてあげればいいのにと改めて思いました。私も、余裕のある子に助けられ、助ける側に回った身なので。
親が養ってるから、そいつがいるんだから、そいつの親の会社に苦情入れて、お前の会社はいじめに加担する会社なのか問い詰めればいいじゃん。親干せ。供給源を絶て。馬鹿馬鹿しい。
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