ミスエデュケーション

同性愛を悩まなかったあの頃の私に

 20歳だった私の自転車のカゴの中には、一冊のもらいものの聖書が置いてあった。
 外に出しっぱなしの自転車は雨でずぶ濡れになって、カゴの中の聖書はしわしわになっていた。
 結局一度も読むことなく、私は濡れた聖書を捨てた。

 自分が同性にも惹かれる人間であることに気付いたのは12歳の頃だった。
 Sという名の同性のクラスメートに、恋心とも劣情とも、その頃の私にはラベリングができない感情を抱いていた。近くにいれば胸が高鳴り、なんだか不思議な気持ちになった。やがてSの裸体を、淫らな姿を想像するようになった。
 そうか、私は同性愛者だったのか。
 自分のセクシャリティを認識した私がまず抱いた感想は「へ~」だった。それから数年、異性の芸能人に全く惹かれてこなかったことにも合点がいった。

 セクシャルマイノリティの若者が迫害を受けたり、思い悩んで自殺をしたりするケースが多いことは、まだまだとはいえかつてに比べてかなり世間に認知されてきている。
 必ずしもではないけれど、自分がセクシャリティが「少数派」であることに、若者は悩むのだ。
 自分は病気なのかもしれない、周りにバレたらどうしよう、家族や友人から認めてもらえないかもしれない、幸せになれないかもしれない……。
 自己認識が曖昧で、社会との繋がりや知識もまだ薄い思春期には、自分が大勢の人間と異なるということは相当な脅威になるのかもしれない。ましてやこんな日本だ。
 だけど、その頃の私は悩まなかった。それどころか、それが「悩む」ものであるという認識さえなかった。
「色が白い猫がいるし、色が黒い猫もいる」レベルの認識だったかもしれない。黒猫は自分の黒さにわざわざ悩まないし、みんな黒猫を「なんで黒いんだ!白くなれ!」とも言わない。
  それは別に、すでに私の自己認識がはっきりしていたとか、多様性に関して知識があったとか、達観していたとか、そういう上等なものではない。
 ただただ私が「悩むほど賢くも繊細でもなかった」からだ。
 そして私は、みんなもそうだと思っていた。こんなことで悩む人なんていない、と。

 17歳の私は一冊の本と出会い「自分が同性愛者だと気付いた若者は悩むことが(しかも結構)ある」ということをはっきりと認識することになる。
 石川大我さんの著書『ボクの彼氏はどこにいる?』はゲイである著者の青春時代の悩みや葛藤、出会いや救いを明るいタッチで描いた自伝的作品で、当時の石川さんは同性愛に関する講演活動やイベント主催などをしていた。2011年に社民党公認の豊島区議員として当選して日本初のオープンリー・ゲイの議員となり、現在は立憲民主党公認で7月21日の参院選に比例代表として立候補し、同性婚の制定などを訴えている。

 この本を読んで感銘を受けると共に、私はある恐れを抱くこととなった。
 あまりにも愚鈍で、あまりにも浅薄な私もついに気付いてしまった。
 どうして私は「悩んで」ないんだろう。
 必ずしも、当事者は悩まないといけないことではないし、悩まずにすむのならそれに越したことはない人生もある。
 だけど当時の私は恐れていた。悩んでなかった自分を恥じていた。
 悩まないことは姿勢としてとても不誠実で、悩んでいる誰かに本当の意味で寄り添ってあげられないと思ったからだ。
 悩むということは知性がないとできない。悩みとは知識や理解や判断などの知性に基づいて作られる。私にはそもそもたいした知性がない。
 空っぽの脳みそに一滴の「知」を与えられ、私は「悩まないといけない」と思ってしまった。いや「悩む余地」が生まれてしまった。
 その「知」は「あまり思い悩むことはない」と教えてくれたのに。
 悩まなかった自分を肯定するのに、その頃の私はまだ若かった。
 それからセクシャルマイノリティに関する文献を読み漁ったりメディアに積極的に触れたりするようになった。やがて自分はゲイではなくバイであることもわかり、大人になってバーに通うこともあったけれど、根っからのコミュ障なのでたいして楽しめずに足が遠のいた。レインボープライドは最近色々と物思うことはあっても毎年欠かさず参加している。

 
 私は映画が好きでよく観ている。休日は足繁く劇場に向かい、家ではネトフリとプライムビデオで映画を楽しむ。今年観た新作映画をチェックしてみると、特に意図したわけでもないけれど、同性間の性愛や強固な関係性が描かれた作品が多かった。
 牧場で出会った二人の青年の激しい恋を描く『ゴッズ・オウン・カントリー』は性描写が強烈ではあるものの後味はしみじみする佳作だ。『ハーツ・ビート・ラウド』は同性愛が作中で偏見に脅かされることなく自然と溶け込んでいた心地の良い作品だったし、『女王陛下のお気に入り』はクンニで出世するレズビアン島耕作だった。ネットフリックスで見た『エリサとマルセラ』『パーフェクション』もそれぞれに胸を打つものがあった。 
 何かが広く認知され、話題にあがり掘り下げられ、そこに基づいた作品が作られるようになると、方向性や設定の似た作品が生まれるのは当然のことだ。今年観た二作『ある少年の告白』と『ミスエデュケーション』は設定の似通った作品だった。

 劇場で観た『ある少年の告白』はゲイの少年が熱心なキリスト教信者の両親によって、教会の設けた同性愛者の転換プログラムを行う施設に入所させられる作品だ。傲慢で高圧的なセラピスト達と主人公は幾度も衝突し、いくつかの悲しい出来事が起きながらも、最後には少しのカタルシスを伝える。実話を基にしたこの作品は、強烈な真実を提示して幕を閉じる。
 日本では劇場公開されずDVDスルーの憂き目にあった『ミスエデュケーション』も同様、ゲイである主人公がキリスト教の設けた同性愛者の転換プログラムを行う施設に入れられるという設定だ。『ある少年の告白』と決定的に異なるのは本作の主人公が少女であるということで、主人公は同じく施設に通う者達と友情を育みながら、爽やかな余韻を残して物語を終える。こちらは原作小説が存在する。
 この二作では、主人公達はそのセクシャリティを「誤ったもの」とされ、「治(直)そう」とする外部の力に苦しむことになる。閉鎖的な環境、閉鎖的な思想が彼らを追い詰めていく。聖書のありがたい教えが、彼らの尊厳を押さえつける。

 私は今でこそバイセクシュアルであることを友人知人、そして相方には公言はしているものの、親兄妹には伏せている。私が生まれ育った土地はとても狭い離島で、ご多分に漏れず思想的には相当保守的だ。
 もしも青春時代の私が、「知」を与えられるまでの私が、「実は私、同性が好きなんだよね~」とかなどと、軽い世間話のノリで話していたらどうなっていたのか。
 私が同性もののポルノを楽しんでいたりしていたことを、親に知られていたりしたら、どういうことが起きていたのか。
 私の両親は無宗教で、私も無神論者だ。なので先の映画のように、宗教の教えに基づいたセラピーを受けさせられることはないかもしれないけれど、親は私を恥じていただろうか、怒っていただろうか、泣いていただろうか。
 考えてみれば私は幸運だった。悩まないでいられた、というだけでも相当なものだと思うけれど、ゴリゴリに保守的な土地で自分のセクシャリティをうっかり口にしなかったのは、地雷源を全速力で駆け抜けきれたようなものだし、何よりも与えられた「知」に感謝した。
 悩むことを知る前の私が口を滑らせていたら、親兄弟や友人に忌み嫌われ、叱られ、泣かれ、周囲から冷ややかな目で見られ、提言をされていたら、無知で鈍感な私はあっけなく受け入れていた可能性があったからだ。
「そうか。私は間違ってたんだ。同性が好きなのは病気や一種の錯覚や歪んだ考え方であって、治したりする必要があったんだ」と。
 尤もそんなもので、本当の自分を殺すことなどできない。セクシャリティが治るなんてことはありえないし、治すなんて概念は存在していない。
 だけど、若かった私には自分の尊厳にナイフを突き立てて、大きな傷を付ける未来があったのかもしれないのだ。今よりも悲しい私がここにいたかもしれない。

『ミスエデュケーション』の中で印象的な場面がある。セラピスト達が同性愛を海面から飛び出た「氷山の一角」に例え、同性愛に至るにはネガティブな「原因」が多々あって、それらが巨大な氷山を構成していると唱えるのだ。そして「治療」を受けている者達に、氷山のイラストの中にその「原因」を書かせる、というシーンが出てくる。
 もしも何も知らない私がその「治療」を受けていたら何を書いていただろう。親が離婚したから、両親にそれぞれ恋人がいたから、神風怪盗ジ◯ンヌのエロ同人を兄妹三人で回し読みしていたから……なんとでも書くことはできただろうけれど、何を書いたって自分を傷つける結果にしかならない。自己を見つめることは思春期の悩みにおいてとても重大な要素であるにも関わらず、若者が今の自分を「悪」と決めたうえで自分を構成してきたものや出来事を見定めていくなどとても悲しい。

 知らないうちにギリギリで危ない橋を渡っていたとはいえ、私は悩まなかったからそれなりに生きやすい青春時代を送れたし、悩むこと、考え続けることの重要性を(私なりに)学ぶこともできた。なので、悩みのなかった頃の私を否定することはない。「悩み」はあると苦しいものだ。
 それでも私は「悩むこと」を覚えて良かったと思う。私の目にようやく「悩んでいる人」「悩む理由」の存在が可視化されたからだ。

 20歳。家の近所をキリスト教の信者の人が自転車でウロウロしていた。散歩をしていたら声をかけられ「教会に遊びにきませんか?」と誘われたので、物見遊山で教会に向かい、神の力で盲目の人の目が治るビデオを見せられたり、みんなに配られた一切れのパンが「まだ洗礼を受けてないから」と配られなかったりした。帰りに聖書をもらって自転車のカゴに入れ、それから教会に顔を見せにいくことは二度となかった(あとで思い出したけれど厳密にはモルモン教というキリスト系の新宗教だった)。
『とある少年の告白』と『ミスエデュケーション』を観て、私は外で雨風にさらされて濡れたあの聖書を思い出した。
 これまでに一体何冊の聖書が、同性愛に悩む子供たちの涙を吸ってきたのだろう。
 聖書は人を悩みから導きだすようだけれど、悩み自体がときに人を導いて、導きもまたときに人を悩ませる。悩む必要があることもあれば、悩ませてはいけない、悩んではいけないときもある。悩むことでしかそれを判断できないとしたならば、聖書を読んだことのない私はこれからもおおいに悩んでいく。

 ところで。

 映画『ミスエデュケーション』なのだけれど、先述のようにこの作品には原作小説がある。その原作小説を邦訳し出版するためのクラウドファンディングが企画されており、企画成立までの期限まで残り一週間を切ったところで達成率は73%だ(2019年7月14日午後3時現在)。

10代レズビアンのリアルな青春とサバイバルを描いた映画原作小説
『The Miseducation of Cameron Post』を翻訳出版して若者に届けたい!

 私的にもこの本が出版される意義は強くあると思っていて、詳細は企画ページを読んでほしいのだけれど、興味のある方は是非、支援してもらいたいと思う。もちろん私は支援済みだ。

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小粋な看守の計らいで菜の花畑の土になる
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