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インターネットに出会う前から書いていた私の35年間。

今日35歳になった。

私は深夜に部屋の片付けが終わらずに、ブログを書きたいのを我慢して、整理整頓に夢中だった。

しおたんさんこと、塩谷舞さん(@ciotan)の「インターネットに、SNSに生かされてきた29年間。 #SNSと私とパラレルワールド 」が公開され、泣きそうになる誕生日前日。

とても良かったので、私も乗っかって自分のことを書いてみることにした。

1983年 誕生

愛知県に生まれる。名古屋ではなく、安城市。

新幹線で東京から名古屋に向かうときに「定刻通り三河安城を通過しました」っていう街だ。

祖父、祖母、父、母、私。三姉妹の長女で、このあと妹たちが生まれる。長女はよく妹の世話をしがちだけど、私はまったく記憶がない。

両親は共働きで働いていて、ほぼ祖母に育てられたような感じ。

1988年 保育園

私は2年保育で、4歳から保育園に入った気がする。気がするって覚えてないのかよって思うだろうけど、どんどん記憶が曖昧になっていく。

少しでも残しておくために書くことにした。

保育園は、母が自転車で送り迎えをしてくれた。私は後ろのカゴに乗っていた10分間。

今でも強烈な記憶があるのは、保育園の鉄棒から落ちたこと。鼻にBB弾を入れてしまって、取れなくなって病院に行ったこと。隣の畑に蝉をとりに行って、隣のおじいちゃんに怒られたこと。

私は常に何かやらかしていた。

1991年 小学生になりたて

小学生になっても何かやらかしていて、アイロンで火傷をしたり、縄跳びで骨折したりした。姉妹のなかでは怪我がいちばん多かった。

はげしい怪我が多い私だけど、けっこうおとなしめの存在(だと思っている)

友達のひとりがピアノを習っていて、かっこいいなぁ素敵だなぁって思い、母にお願いをして、ピアノを習い始める。

姉妹あるあるで、姉の私がやりたいと言い出すと妹たちもやりたいやりたいと言い出す。結局、三姉妹全員ピアノを習った。(このあと妹たちは習字も習ったが、私は上手い方だったので習わなかった)

ピアノだけでなく、私は体が弱かったので水泳を強制的に習わされた。水疱瘡やおたふくを立て続けにやり、学校をめちゃくちゃ休んでいたのだ。

水泳はとにかく楽しかった。クロールができる、平泳ぎができる、バタフライができる、それぞれステップがあってステージが上がると帽子の色が変わる。

その帽子の色が最後の色・ブラックになったときに、思春期になり突然水着が恥ずかしくなったのである。

水泳をやめたくなった時期の夏休み、図書館で偉い人の自伝マンガをよく読んでいた。

キュリー夫人、アンネ・フランク、ファーブル、エジソン、紫式部、卑弥呼などが好きだった。源氏物語もマンガになっていて、それも面白かったなぁ。

講談社の青い鳥文庫のクレヨン王国シリーズも読んでいた。読んでいたくせに、まったく覚えてないけど、本屋で見かけるたびに懐かしく感じる。

1992年 小学生で書くことを始めた

子ども時代は、ひたすら目立たないように生きていた。

勉強ができて運動もできる明るく活発なグループと、ふつうのグループと、少し暗い運動音痴なグループと分かれる傾向がある小学生。

なんだかグループに属すことがよくわからないまま、なんとなく席が近い子と仲良くなった。

交換日記が流行っていたので、仲良くなったグループのなかの友達と交換日記をはじめた。

そもそも同じクラスなのに、今日あった出来事とか、好きな人がいて、どこがかっこいいとか、そういう話をひたすら書き綴る毎日。

私一人では日記を書くことはしなくて、毎年書こうかなぁとお正月に思うだけ。

そんな私だけど、交換日記だけは続いた。交換日記が終わったのは、クラス替えをしたときと、卒業したとき。

少しだけさみしかった。

1995年 小学6年生

読むとか見るとか書くとか、好きになってきたとき。

いとこのおばさんに、ジブリの「耳をすませば」の映画が公開するから連れて行ってもらった。

低学年のときに初めて映画に連れて行ってもらったのは「紅の豚」で、暗い場所に行くというのが少しこわかった記憶がある。

ジブリばかり連れて行ってもらっていたので、ジブリが好きになる。

図書館にはよく行っていたけれど、雫のような恋は始まらなかった。

1996年 中学生1年生

同じクラスになって仲良くなった友達と、よくマンガを読むようになった。

私は入りたい部活がなくて、なぜか母がやっていたソフトボール部に入部したのだけど1年で辞めた。

辞めた理由は、目が悪くなってレフトのポジションでボールが飛んだときに、みにくくて受け取れないから。

そんな無茶苦茶な理由がとおり、私は友達のいた美術部に入部した。

美術部では、マンガやアニメが好きな子が多くて、ひたすらみんなスケッチブックに何かを描いていた。

絵だけでなく、好きなアーティストの歌詞を書いている子もいた。

1997年 中学2年生

新世紀エヴァンゲリオンにハマっていた。深夜に再放送をしていて、それを録画して何度も友達と観た。はじめてエヴァの映画が公開されるころに、14歳だった私たちはとても興奮した。

私は、惣流・アスカ・ラングレーが大好きだった。大好きすぎて、声優のみやむーこと宮村優子さんが名古屋でイベントをしたときに、友達と友達のお父さんと一緒に握手会に行くほどである。

憧れの人にはいつか会いにいけるという自信があるのは、昔から会いに行ったことがあるからかもしれない。体験や経験は、自分のなかで糧になり、やがて自信になるものだ。

1998年 中学3年生・受験生

まだまだマンガやアニメが大好きで、かなりのオタクだったと思う。

アニメを観れば、誰の声とかわかっていたし、あらゆるアニメをよく観ていた。マンガは、りぼん・なかよし・ちゃおを経て、少女コミックとかマーガレットとか少年ジャンプとか。マンガを夜な夜な読みながらラジオを聴いている生活。

ジャンプは、ホイッスル!というサッカー漫画が好きだった。(ちなみに水野くんがタイプ)

少コミは、ふしぎ遊戯が好きだった。美朱は羨ましかったし、鬼宿はかっこよかったし、古代中国の設定に憧れた。

今思い返すと、イラストレーターになりたかったし、漫画家にもなりたいと言っていたような気がする。

種村有菜先生の初期からハマり、ファンレターを出したこともある。ありなっちが好きな小森まなみさんのラジオにハガキを投稿したことも今では懐かしい。

ありなっちがマンガの柱に小森まなみさんが好きって書いていて、そのハガキが読まれてたときのカセットテープをファンレターとして送ったのである。

今思えば、よくそんなことをしたなぁ…と思うのだけど、これがびっくり!ありなっちから直々にお返事をいただいたのだ。

ハガキ職人だった私は、ラジオで自分の文章が読まれることに感動もしたけれど、それを喜んでくれる人がちゃんと存在していて、自分に御礼まで言ってくれることが、中学生の私には衝撃すぎる出来事だった。

そんな私は、どこの高校に行きたいとかなくて、勉強もあんまりしていなかった。家から近いところでいっかという安易な考えで進むことにした、家政科の高校に受かった。

実は、この第一志望の家政科は難しいと言われいて、ギリギリで受かり晴れて自宅からいちばん近い学校に通うことになる。

1999年 高校1年生・はじめてのパソコン

また美術部に入った私は、当たり前のように絵を描いていた。

油絵セットも買ったけれど、油絵のにおいに酔ってしまうくらいで、水彩画ばかり描いた。人物は苦手で、静物画がとても好き。

置いてあるりんごとか、風景とか、今撮る写真と似ているのかもしれない。

ほぼ幽霊部員だった私は、徐々に描くことより聴くことに夢中になっていった。

それは音楽である。

家政科に入った私は、情報処理の授業があった。そこで初めてパソコンをさわり、日本のどこかの人と文字で会話をするということを覚えた。

部活に行かずに、パソコン教室に友達と残り、チャットをし始めた。そのチャットで知り合った人が好きと言っていた音楽を聴くようになる。

チャットは楽しくて、何時間でもしてしまうほどの魔物。

これを家でもしたい…

どうしても夜も話がしたい…

私は、父にお願いをした。

これからはパソコンの時代だから!授業でも使ってるし絶対必要だから!とプレゼンをして、めちゃくちゃ高いパソコン「Windows 98」を買ってもらうことに成功。

私の家族は誰もパソコンには興味がなく、私は一人でデスクトップのWindows 98を組み立てた。コードをつなぎ、インターネットを設定を自分でした。

メールの設定をした。

友達がポストペットをしていたので、私も設定をした。

よく行っていた掲示板から、チャットに入ることができた。

めちゃくちゃ感動した。

その頃のインターネットの料金はISDNやらADSLで、使った分だけすごく請求されるもの。

もちろんチャットをやりすぎて、請求額が月3〜5万になりすごく怒られるところまでがセットである。

掲示板やチャットデビューした私は、パソコンを開かなければ、その世界の人と繋がることができない。

自分だけのものではなく、家族のもの。

友達がポケベル・PHS・携帯と次々持っていってるのを横目にみていた私も、ついにパソコンよりも携帯電話がほしくなった。

携帯電話は買ってもらえず、自分のお金で買うならいいといわれ、アルバイトを始めた。

自分の世界を保つために。

2000年 高校2年生

2000年問題のとき私はチャットをしていたけど、特になにもないまま新年を迎え、アルバイトに勤しむ毎日になった。

初めてのアルバイトは、居酒屋。友達が働いていたところで、働くようになった。

自分の稼いだお金を、自分のためだけに遣うということ。

それはとてつもなく嬉しく、すぐに遣ってしまった。

携帯電話を買い、好きなアーティストのCDを買い、MDを買い、MDコンポを買い、MDプレーヤーを買い、化粧品を買い、服を買い、カラオケに行くようになるのは早かった。

初めての携帯電話は、J-PHONEの折りたたみ携帯。確かグリーンっぽいような色。

周りがまだ折りたためない携帯を持っているなか、折りたたみを持った私はとてもわくわくしていた。

今でいうSMSは、文字数が決められていて長文メールが送れなかった。

画面も白黒。

絵文字もdocomoに送ると「=」になってしまい、せっかくの絵文字が台無しになるのだ。

何気ない会話をわざわざメールでする。

それだけで世界が広がった気がした。

携帯から、魔法のiらんどのような携帯用のサイトを見ると通話料金がかさんだ。

やっぱりインターネットはパソコンで見たほうがいいのかなぁと考える。

パソコンで出来ること。掲示板の書き込み、メールを送る、チャット、私は物足りなくなって、自分のホームページを作ることにした。

自分の知識だけでは無理だと諦め、ホームページビルダーを買う。

ホームページビルダーを入れると、ホームページは驚くほど簡単にできた。

そして、私は好きだったSOPHIAのファンサイトを立ち上げた。

ファンサイトには、SOPHIAの最新ニュースと、ファン同士が交流できる掲示板(BBS)とチャットと、リンク集、そして自分の日記というコンテンツ。

エンピツという日記サービスで、毎日毎日飽きもせず日記を書いた。(この日記が後に悲劇をうむことになる)

2001年 高校3年生

SOPHIAのファンサイトを立ち上げるほど、SOPHIAのことを追いかけていた。

もともと声優ラジオのハガキ職人だった私は、SOPHIAのラジオにも投稿をしていた。松岡さんのLIPSとか、黒柳さんの東海ラジオとか、サンフラワーズガーデンのラジオとか、めちゃくちゃ読まれていたのである。

読まれすぎて、直接電話で話すコーナーや公開録音にも行って出演していたほどだ。

このとき、初めて自分の声を聞いて変だなぁと感じた。

自分の声はなんだか好きになれなかったけれど、自分の読まれる話は面白いんじゃないか…と密かに思い始めていた。

なんでもないエピソードを人に伝えるときはおもしろく。けっして話を盛っているわけではなく、自分の感情を頭のなかで考えて伝えるのは、文章が最適だった。

高校生なのにライブで県外ばかり行き始めた私は、インターネットで知り合った人ばかりと遊ぶようになる。

SOPHIAの大阪で行われた野外ライブに、ファン仲間とみんなで行き、いっしょにホテルで雑魚寝した。

サンフラのデビューライブを金沢まで観に行くときも、友達とバスで行き、泊まる場所がないからファミレスでも行こうと思った時に声をかけてくれた美容師さんの家に泊まった。

カットモデルになった私は、小学生以来のショートカットになってしまったのは、あんまり良い思い出ではないけれど。

2002年 専門学校生

大学へ行く、短大へ行くという友達があまりいなかったし、勉強が好きではなかったし、ライブばかり行っていた私は音楽の専門学校に入学した。

友達や周りの環境というのは、つくづく重要だと今では思う。

友達が大学進学ばかりだったら、私も大学に行っていたかもしれないし、家政科だから調理や服飾関係の道もあったのだ。

それがまるで前代未聞のような進路。音楽系である。

しかも、選択したコースはイベントプランナーコース。

イベントを企画することを学ぶのだ。

専門学校生になり、初めて手伝ったイベントのケータリングでX JAPANのToshIさんと話した。

芸能人と話すことは、高校生でライブに行きまくったりしていた私には何でもないようなことに気づいた。

先輩のイベントを手伝ったり、講師の先生の本業の手伝いを積極的にするようになった。ほぼボランティア。暇だから行く。何とか技術が必要だとがむしゃらだったのかもしれない。

イベント関係で忙しくなった私は、徐々にSOPHIAから離れ、インディーズバンドのライブを観に行くようになる。

同時にファンサイトの更新も滞り、パソコンよりは携帯を見る時間が長くなった。

この頃の携帯事情といえば、1年経てばすぐに買い換えることができた。2年縛りもなかった。

最新機種じゃなければ、0円で新規契約することができた。機種変更をして、ずっと同じ番号をつかう人は少なくて、「携帯かえました!番号は●●、メールアドレスは●●」というメールがよく来る時代だった。

学校のイベントだけでなく、自分たちだけで主催するイベントも手がけるようになると、どんどん人脈が広がるようになった。

ライブハウスを貸切り、出演バンドのライブに顔を出し、宣伝をして、チラシを配って、なんとか成功をおさめた。

イベントって結局人がこなければ成功したように見えないのだなと、19歳の夏に思い始める。SNSはなかったので、SNSで告知という発想はない。

学校のイベントでも舞台監督をするようなった。

しかし、なかなかうまくはいかなかった。むしろいつもイライラしていて、「何でもっとイベントに時間を割けないの?」とクラスメイトに問い質す。

私でさえアルバイトを5つも掛け持ちしているのに、イベント優先しているのに…アルバイト1つで忙しいと言っているのが許せなかったのかもしれない。

私にはリーダーシップがなかったのだ。

2003年 専門学校2年生

このままイベントの仕事に就くべきか、ほんとうにイベントの仕事が好きなのかわからなくなった。

自分のやりたいこと、ちょっと興味があること、おもしろいことの一つが照明の授業だった。

ライブステージを飾るきれいな色たち。その色がまざって、何ともいえない素敵な空間を生み出すことができる職業に魅了された。

好きな音楽に合わせて色を作り出す。

これほど楽しいことはないと思ったのである。

ちょうどハタチになる前の春、私はライブハウスで働くことになり、思い切り照明ができる環境になった。

ライブハウスは、暗くてこわくて独特の世界だと行ったことない人は思うかもしれないけれど、私にとってはいつも楽しくて笑うことができた場所。

その楽しい場所で働くのは、とてもわくわくしていた。

2004年 照明という職業

わくわくしていたのも束の間、あっという間に挫折する。

技術を身につけることは、容易いものではなかった。

先輩にも怒られ、無視され、うまくいかずに、悩んで相談して、ストレス発散は買い物だった。

1年かかって、ワンマンライブの照明ができるようになった。

ビジュアル系のドレミ團。テーマの色は、赤・紫・黄色。ド(R)レ(Pu)ミ(Y)ってこだわるほど気合いが入っていたけれど、誰も気づいてはいない。

次のワンマンライブは、私の誕生日だった。アーティストはD−51。すごく盛り上がって、とにかく明るく爽やかな色をつかった。

自分の技量が足りずに、もっとがんばらなきゃと思いつつ、どんどんワンマンライブや担当バンドが増えるにようになる。

もうこの時期には、パソコンには向かうことはなくなっていた。

私が組み立てたパソコンには、ゆかりという名前がついていた。

縁と書いて、ゆかり。私とインターネットの世界を繋げてくれる場所。縁がある場所だという思いをこめた私は、高校生にしてはよく考えている。

ゆかりに向かうことがなくなり、相変わらずJ-PHONEの携帯と言いたいところだけど、J-PHONEはやがてボーダフォンになり、ソフトバンクになる。

携帯電話も変われば、私の興味も変わるということだ。

2005年 愛・地球博がおわり、そして

愛知で、万博が開かれた。

栄に野外ステージができ(今では駐車場)、納屋橋に呑み屋とちょっとしたステージ、ささしまライブにもライブをする場所ができた。(Zepp名古屋があるところ)アスナル金山ではオーディションやアコースティックのライブが毎日行われるようになるのも、この頃からだ。

もちろん、長久手会場でも一からステージを組み、照明をおこなうという野外現場が増えた。

いろんな現場に毎日行くようになると、毎日ライブハウスにこもっていた頃には戻れないかもと思うようになってしまっていた。

自分で業者と打ち合わせをして、照明の仕込み図を考え、好きなように動かせるのは楽しいけれど、ライブハウスに戻ると窮屈と感じる。

この忙しい万博がおわったら、照明をやめることを決断した。

万博自体は、とても楽しくて何回もプライベートで行き、マンモスを観たり、藤井フミヤをみたり、よくわからないお肉(ワニかな?)を食べたり、友達と行っても彼氏と行っても、とにかく毎回楽しかった。

照明をやめると決めたけれど、1組だけ私に照明をしてほしいというバンドがいた。

店長やブッキングマネージャーと相談し、私はその担当バンドが出るときは照明をすることになるのだけど、そこまで私の照明に惚れてくれていたのかは今でもわからない。

ただ、そのバンドのお客さんに照明かっこよかったです!と言われたことは、一生忘れないと思う。

2006年 照明から受付事務、初めて自分のお金でパソコンを買う

照明は、そのバンド以外やめて私は受付事務をすることになった。

そこでは自分のパソコンが必要で、もちろん経費で買ってくれるような環境でもなくて、みんな自前だった。

前の人のお古のパソコンをつかって仕事をしていたけれど、限界がすぐにくるようになる。

私は、ノートパソコンを買うことにした。

選んだのは、VAIOでカラーはワインレッド。それがとてもとても可愛くて、愛しい存在になった。

イラレ、フォトショ、ワード、エクセルといった実務的なソフトを入れてもらい、私のパソコンはフル装備になって少しずつ事務が好きになってくるのがわかる。

パソコンってやっぱり楽しいと改めて感じた。

チケットぴあ、ローソンチケットの準備、ライブの精算、スケジュール作成、パンフレットの校正、領収書の書き方、そのことを教えてもらった人が先日亡くなったことを知る。

受付事務にも慣れたころ、mixiが流行り出した。

同僚の人に招待してもらって、友達とマイミクになり、20〜30人のなかで誰かの日記を見たり、コミュニティをのぞいたりした。

mixiに夢中になっているころ、私は当時つきあっていた彼氏からとんでもないことを耳にする。

「お前が昔書いてた日記を見つけて読んだ」

私が高校生のころに書いていたエンピツ日記のことらしい。

まったく本名は出していないのに、なんでわかったのだろう。

ここでネットの恐ろしさを知る。

ただ、SOPHIAのことばかり書いていた日記だったけれど、高校生の頃の思考を読まれるというのは、恥ずかしさの極みである。

あまりにショックで、口を聞きたくなかった。

2007年 若いうちにしかできない仕事

店長に私は25歳までに辞めたい。と宣言していた。

宣言どおりに24歳の3月に辞めた。

私はライブハウスの地下から抜け出して、アルバイトから正社員になるために転職活動をした。

ライブハウスのときから、いくつかアルバイトを掛け持ちをしていた。

名駅の裏のモーニングが主流の喫茶店。松坂屋のカフェ。地元のテーマパーク。地元のイタリアン。

イタリアンで社員にならない?とも言われた。

私は事務で「名古屋でOLをする」というのを目標にしていたため、あっさり濁して、無事に紹介予定派遣から正社員になることができた。

2008年 正社員、そして一人暮らし

実家をとにかく出たかった。

ライブハウスの給料では一人暮らしはできないと思っていた。

しかし、一人暮らしをしていた人もいるのでそれは言い訳に過ぎなかったように思う。

とにかく貯金をしなくては!お金を貯めて家を出る!

だから正社員になったんだ。

残業もオッケー!

出張もオッケー!

休日出勤もオッケー!

私の休みは、日曜しかなかった。

あれ?

これって本当に私がやりたかったことなのだろうかということがよぎる。

毎日、エクセルに向かって、メール返信をして、出荷して、セミナーの手伝いをして、、

好きな仕事しかしたことがない私は、好きと思わずに入ったところに疑問を感じる日々を過ごすようになる。

2009年 フリーターじゃだめなの?

私は親にも彼氏にも友達にも、あまり相談をしない。

現状の悩みを言っても、答えを出すのは結局は自分と決まっているからだ。

それが可愛くないだろうなぁと思うけれど、「じゃあこうしたら?」って言われても、天邪鬼でそうしないと思うんだ。

私は仕事をやめることにしたからという事後報告ばかり。

LOVE定額(2005年頃のボーダフォンの定額サービス)をしていた頃の私たちは、もうそれほどラブラブでも何でもなかった。

一足先に、Mac大好きだった彼はiPhoneデビューしていた。

ソフトバンクしかiPhoneを出していなかったため、ガラケーと2台持ちで。

そんなことまでしてiPhoneを持ちたいのか不明だったけれど、私もまんまとiPhoneにしているのだから、彼は時代の先駆者だったのだろう。

iPhoneがこんなにも流行る、スマホの時代にいよいよ突入だ。

続きは、また今度。後編は以下を書いていく予定です。

2010年 一人暮らしとか別れとか、iPhone4とか

2011年 飛び立つ私の生存確認はFacebook

2013年 順調にiPhone5の虜、京都で

2015年 東京でiPhone6はauにした

2016年 ブログを始めた理由

2017年 もう4台目のiPhoneとアフィリエイト

2018年 現在とこれから



ナナメドリです。ブログを書いてる人です。支援していただけたら、たくさん文章を書くことに使わせていただきます。