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砂糖菓子の弾丸で生きて行きたいニート

 先日、桜庭一樹さんの「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読みました。

 そこで感じたこと、自分に投影して気づいたことを書いてみます。本の感想と言うより、ほぼ自分語りです。


※作品のネタバレを含みます。



 私はここ数十年、ずっと砂糖菓子の弾丸を撃ち続けていたのかもしれない。実弾を撃つのは大変だから、精神的にキツいから、私には向いてないからって、ずっと逃げて、代わりに砂糖菓子の弾丸を撃つことにした。素晴らしい夢を語って、紛れもなく私は「それ」になるんだって疑わなかった。両親は私を勘当しないし、生活も困窮しているって訳でもなく、貯金もそこそこあって、ただ普通の家庭で、生きていくだけであれば困らなかった。

 私は実弾を持たずとも生きられた。私は主人公山田なぎさではなく、兄の山田智彦と自分を重ねて見ていた。ただ、山田友彦と違って、私は妹弟に面倒を見てもらっているわけではなく、両親に面倒を見てもらっているのだが。

 山田友彦は家族の生活費をほぼ自分一人で消費して、色んな物を買い集めていたが、それに対して作中では家族が直接咎めるような描写は無かった。ふと「私の両親みたいだ」って思った。私は困窮ギリギリまで家族の生活費を消費するような真似はしてないが、専門学校時代の一人暮らし関係のお金は全部親に払ってもらっていたし、今も、好きな趣味のものとかオタ活代とかを親の金で払ってもらっている。生活が困窮してるかしてないか、の問題ではなく、単純にやってることは山田友彦とおんなじだ。

 作中で山田友彦は「神(あめだま)」になったと描写されていた。様々な心理学の本や、哲学の解説動画を見漁って世界を達観した気になっている私も、ある意味「神(あめだま)」になっていたのかもしれない。最終的に山田友彦は妹の為に3年ぶりに外に出たことで神の視点を失い、代わりに外で生きていく力、実弾を手に入れた。

 私が何がきっかけで神の視点を失うのかも分からないし、そもそも失わず、永遠に砂糖菓子の弾丸を撃ち続ける「神(あめだま)」で居続けるのかもしれない。確かに私は最近、大人になっても両親に養われている現実に申し訳なさを通り越して嫌気が刺して、実弾を手に入れようとバイトを探して躍起になっていた。

 ただ、本当は、今持っている砂糖菓子の弾丸で生きていきたかった。この現代では、砂糖菓子の弾丸が実弾として機能する可能性が含まれていることを知っている。だから専門学校にも行ったし、その為の勉強もした。ただ、未だ成果は出せておらず、焦った私は、手っ取り早く自立できる「実弾」を求めた。ただ、ここのバイトはシフトが固定だとか、通勤が30分もかかるとか、接客業だとか、自分に不都合な点を見つけては弾く。切羽詰まってると言っておいて要望が多い。一刻も早く自立したいのなら、それこそ自衛隊にでも入れば良いのに。

 砂糖菓子の弾丸に、実弾としての可能性を含ませている時点で、私には作中の意味での本当の「実弾」を手に入れる気がないのだ。それは言い換えれば、実弾を手に入れずとも生きていける確信。両親の庇護を得ることも厭わないという意思の表れ。砂糖菓子の弾丸に夢を見れているうちは、まだマシなのかもしれない。

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