大人になってからの友情について
私たちはいつもお互いに憧れていて、羨ましかった。
私には大切な親友がいる。仲良くなったのは高校1年生のとき。同じクラスだったのがきっかけだ。
育った場所も、両親の仕事も、家族構成も、趣味も、性格も違っていたことは多かったけれど、どこかとても似ていた。
いや、話をするととても楽しかったから似ていたと思っていたけれど、やっぱり違っていた。そこにあったのは相手の立場を想像して感じ、考える「共感」だったんだと思う。
私たちはよく話した。2人ともはたから見たらただの小娘だったけれど、精一杯に思うことや考えることがあった。
先生のこと、家族のこと、受験のこと、その先の未来のこと。
一緒に同じことを経験したとき、お互いから生み出される答えが同じこともあれば、全く違って驚くこともあった。でもたとえ違ったとしても、そこに共感があった。自分の中に沸き起こってきた感情や考えを話して、認め深め合える関係はとても尊いものだった。
ただ、ほとんど自分のことだけ考えていれば良かった高校生の私たちが目指していたのは、一貫して「よく生きること」だけだった。そのために周りの世界とどう付き合えばよいのか、自分について何を知ればよいのかそういうことがいつも話の中心だった。
生きているとそう理想通りにもいかないことが「どうもあるらしい」くらいにしか現実を知らなかった。
そしてだからこそ、自分を理想通りに強く保てないときは一緒に居れなかった。低いところからお互い自力で回復してきて、少しずついろんなことが言葉になってきたときに初めて、私たちはそれを共有して当てはまる言葉を探すことができた。
つまり、傷ついたり、疲れたり、ぼろぼろで最低のところにいるときに泣きつく相手ではなかった。それは、お互いのプライドの高さによるのかもしれないけれど。
とにかくそうやって、しばらく疎遠になったり、とても話したくなったりそういう関係を続けていた。
ある「疎遠」明け、久しぶりのおしゃべりでお互いが気がついたのは、とてもよく似てきたこと。自分になくて相手にある考え方、姿勢、そういうものをお互いに手に入れた結果、なんだか似てきたのだと思う。
私たちはいつもお互いに憧れていて、羨ましかったんだね。
そのことを口に出して共有できたのがとても嬉しかった。
お互い不完全で、それゆえに色んなことで悩んだり無理をしたりしていることを知っていたから、真正面から「あなたのようになりたかった」とは言えていなかった。「よく生きる」を目指すためには、今の私たちじゃない何か新しいことを手に入れなくてはならないような気がしていたから。
理想通りにはいかないことがあるということを少しずつ知ってきた私たちは、不完全なお互いをより深く知ることができ、そして、不完全なところもまた素敵だなと思えたのだった。
「仕事を始めたら付き合う人が変わった」「忙しくて友だちと会う暇なんてない」「“結婚している人いない人”、“子どもがいる人いない人”その属性が合わないと話ができなくなるよ」
そんなことをよく言われるけれど、この友情に終わりはないと思っている。
学生から抜け出して、もっと現実がもっと迫り来るものになったとしたら、そのとき私たちはお互いをどう見るのだろうか。学生の時、あんなこと言ってたよね。そうやって話すのが今からとても楽しみだ。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。こうして言葉を介して繋がれることがとても嬉しいです。