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「届ける」 。 私には愛しか感じない。

ものに抱いているイメージ、人によって真逆なことが多々ありますよね。

なぜかというと、置かれてきた環境やこれまでの人生で見たり聞いたりしてきたことへの原体験の積み重ねといった前提が違うから。

今日は、特定のものをイメージづけている根っこは、記憶や体験なんですね、という話を書こうと思います。

「届ける」に宅配感?

例えば、先日あるコミュニティで話題になったのが「届ける」の言葉。

“宅配感” を感じるというのです。業者が送るような淡々としたイメージでしょうか。

「届ける」には以下の意味があります。

1.物を持っていき、先方へ渡す。
2.学校・役所や会社の上役などに申し出る。届けを出す。
3.受け入れる。承知する。
4.終わりまでやりとげる。
(※goo国語辞書より)

“宅配感”には、1の「物を持っていき、先方へ渡す」が、平和から令和時代に一気に広まったインターネット通販としての意味も含まれるようになったのでしょう。

ところが、私にはいまだに一切そんなイメージは持つことはなく、逆にやさしいイメージしか感じません。それはなぜでしょうか。

ジブリの名コピー 「忘れものを届けにきました」

唐突ですが、私はスタジオジブリ教(宗派:宮崎駿派)に入信してかれこれ30年ほど経ちました。ジブリ作品の描く世界観や人生哲学に大きな影響を受けて大人になったと思います。

特に糸井重里さんの書くコピーには強いメッセージ性があり、今でも時々思い出しては、自分の内側へのエネルギーにしています。

一例を見てみましょう。ジブリ1988年同時公開「火垂るの墓」「となりのトトロ」のコピーは、当時小学生だった私の心に静かに語りかけてきました。

火垂るの墓:「4歳と14歳で、生きようと思った」
となりのトトロ:「このへんないきものは まだ日本にいるのです。たぶん」

ポスターの前でぼうっと立ち尽くしたのをぼんやりですが覚えています。

そして、少し後に知った2作品共通のコピー。これが私に強烈な印象を残したんです。

「忘れものを届けにきました」

ああ、なんてあたたかくてやさしいメッセージなんだろう。と。

その体験から、私にとっての「届ける」の意味は “心から心に渡す” という意味になりました。

田舎の「届ける」は、手渡しと声のコミュニケーション

私は大阪育ち、20代も都会で働きました。結婚を機に20代後半から田舎で暮らしはじめて、通算10年ちょっと。肌に合うなと感じて住まいは田舎を選び、新潟や京都、兵庫と転々としています。

場所は違えど、田舎にはそれぞれの良さがあるなと思います。

例えば、ご近所さんから野菜をわけていただくとき、わざわざ家まで届けてくださるのですね。

「ちょっと通り過ぎたから届けに寄ったんや、いっぱいとれたさけ、よかったら呼ばれてや」

また、宅配をしてくださる方はいつも丁寧にやりとりしてくれます。今の住まいでは「今日はフルーツが届きましたよ♪」と茶目っ気たっぷりにニコニコしたドライバーさんの対応。

“余計で” “おせっかいな” コミュニケーションをいとう方もいらっしゃるので、一概にこのようなやりとりがいいと言うことはできません。

でも私はお届けもののときの、ちょっとしたコミュニケーションがとても心地いいです。

まとめ

ピンポーン「◯◯さーん、おとどけものでーす」

その後に「チルドなので冷蔵庫にいれておいてくださいね」と一言かけてくださるやさしさが沁みます。送り主の配慮を代理人として声で伝えてくださるのです。

「届ける」が好きな理由、ジブリ作品「魔女の宅急便」にもよく出てくる言葉でもあります。荷物を届けるまでに、あれやこれやと手や心を尽くしてくれるプロセスがわかるからかもしれません。



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