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ハンドメイド、あれこれ。

きっと最初は、ばあちゃんの裁縫箱に並んだ
色とりどりの糸や、針山に無造作に刺さった
まち針や、ボタンの数々を見ていた頃からなのだと思う。

かつて通った幼稚園では、ハサミの研ぎ方や
雑巾の縫い方を先生に教えてもらい、実際に作業して
シールを貰うお部屋があった。
朝、登園すると作業してシールを貰った。
(誰か稲穂幼稚園で同じ体験した人居たら知りたい。
風変わりな子としてトットちゃんの学校に入れられる所だった子なので、それはそれでも良かった気はしてるけど。その話はまた。
何か支援学級みたいなクラスに入れられていたのかも知れない…)

中学校に入って、運動をやる気力もなく
クロスステッチを習いたくて手芸部に入った。

駅前の手芸屋さんでは、ばあちゃんの裁縫箱にあったように、色とりどりの糸が並んでいて。
それはそれは魅力的だった。

クラブ顧問の先生は穏やかで、とても静かな時間が流れて針を動かす事がとても楽しかった。

でもすでに精神がズタボロであった私は、自分に完璧さを求め出来た作品を好きになれなかったり、
最後まで仕上げずに投げ出していたり、道具のせいにしたり、手持ちの色が少ない事を理由に癇癪を起こしていたりした。

それでも先生は、私の聞いたことにだけ答えてくれて、
他には何も言わなかった様に思う。

思春期であり、いろいろと抱えた中学生程大変なことは無いような気持ち、先生には感謝と同時に面倒をかけただろうなと思っている。

7歳の時に自己肯定感など言うものは粉砕されてから、死を抱え歩いてきた。

自信なんて地獄の底に置いて、1つも持ち合わせず
拒食になり、足掻きながら時間を重ねた。

結婚してこどもを産んだときに、ど田舎にいたもんだからまた手芸を始める事となる。

かわいい服も小物も売ってはいない。
長崎屋とヨーカドーがあるだけだ。

アマゾンも何も無かった、今のようにハンドメイドが飽和してはいない時代。10年一昔とは言ったものだが、15年以上も前はおそらく二昔前位の感覚だ。

義母にかぎ針編みを習い、帽子を編んだ。

そこからハンドメイド熱は加速する。材料を輸入している個人を見つけ大量発注をし、東京まで電車に揺られ買い付けに行った。
とにかく材料を集めるのには苦労した時代。

一軒家の一部屋を自分で改造し、誰もが入れる手芸のお店を作った。たぶん臨月で壁に珪藻土を塗って、必死になっていた。
庭も全部、駐車場からの階段も作って。毎日妊婦がコンクリートをこねてる様子を近所の人に見られている。
とにかく、手を動かして何かを作り出すことに取り憑かれていた。

それぐらい、自分の手からかわいいものが生まれる事に夢中になったし、喜んでくれる人がいることにまた嬉しかった。

今もう、ハンドメイド歴は年数だけ数えたら18年とかになるだろう。恐ろしい。

生活が変わり、出来ない時もあったので本当に年数だけで。

いまは、材料も豊富にあり。いつでもネットで買えて。
苦労はないかもしれない反面、実売していくことはどうなんだろうと思うことしばしば。

ハンドメイドの良さとか、個性とか、温かみや希少価値はハンドメイド作家自ら首を絞めてるようにも思う。

工場のように大量に同じものを作るのであれば、
それは工場がやったほうが安価に出来る。

印刷物を業者に発注するなら、誰でも出来る。作家の個性とは?とも思う。

でもこの流れを作ったのは全作家だろうとも思う。

そして私が思っていたよりとても早く飽和の時代が来た。

さ、ここからですよ。

ハンドメイド作家の幸せとお客様の幸せを同量にして、おいしい時間を作って行こう。
そうゆるゆる思うのです。

それは、私が18年前に言い始めた事と
今も変わらない。

ハンドメイドとは手間なのである。
こだわりなのである。ということ。

ハイブランドにも負けないディレクションがあれば、
個性豊かに販路を持つことも可能だということ。

カッコつけて、プライドだけ高くても
共感してもらえません。

大事なのは、作家とお客様の幸せが同量であること。

これです。

小樽で講座やろうかーなんて話もあるので、
もう少し話はまとめておきますね。

続くようなら、また。


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