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夏のある日

昨年のちょうど今頃
心身ともにとてもきつい状態をすごしていて
朝、ふと思い出した。

ずばり人間関係の悩みで、
発端は、野球部の指導者と部員、多くは息子の悩みでもありました。

親の立場で気に病むってどうかしてる
と思う人もいると思うけど、
100歩下がったとしても口の良いとは言えない指導者からの言動に
息子が爆発してしまった
そんな日が約1年と少し前にありました。


自分の正義感で言えば
物事には白黒をつけたいこと、つけられることが存在するんだろうけど
人間関係の全てにおいて
100対0なんてことは、この世には存在しない。

ここでは、ごく個人的見解それから
私の経験則からの話で進んでおりますあしからず。

人と人って
実は絶妙なバランスでできあがっているのだ。
例えるなら味覚のような。

甘み 塩味(エンミ)、酸味、苦み、うま味

五味(ごみ)


ちなみに辛味は味覚じゃなくて痛覚だって言う話とか、アーユルヴェーダでは六味であるとか、そういうのはまた別のお話として。
例え話としてね、
酸っぱいって本来「美味しい」と感じるところもあるけど
腐る前とか危険な時も“酸っぱい”って思う時がある。
苦いのは、何かと複雑に混じり合って“コク”とか“芳醇”って言われたりもするのかな。でも代表としてはこれまた危険信号もしくはアウト。

人間関係も似てるよね。
誰だって受け入れてもらえているうちに与えられている言葉は
酸っぱくても美味しく感じたり癖になったり
苦くても次こそはの期待値に変わったり、それが普通の感覚になったり。

甘いばかりでは吐き気もするし
塩っぱすぎると刺激になったり

そもそも旨味ってどこの何の味のこと?
そんな感覚もある。

好みが生まれると、もう一度食べたいなって
癖になって止められなくなってしまうし、
好きでなくても、他の効果を得るために摂取するそんなこともあるだろうね。

その場にはいたいけど、どうにも受け入れられなくなる言わばアナフィラキシーのような
関係性は、そうなる前に対処をする方法っていうのがあるはずで。

誰にとっても苦しい結果にならないようにするのが健全なのか、片方の利を考えて片方にはその苦しさを飲んでもらうのが得策なのか。それはそのうち慣れるのか。


どう転んでも
調和なんてもう取れない関係性に来ていると判断される瞬間があるはず。

食べてもらいたいばかりで
相手が受け入れられないことを
責めたりなだめたりで
あくまで
食べきることに固執していると、
即効性の毒もしくは遅効性の毒になって自分に影響を与えるようになる。


そのことを
目の当たりしています。

色んな人からの色んな人の意見がありました。
「もっともだ」ということも
「申し訳なかった」ということも

ただ、自分の選択したことが正しいか正しくないかは、後の結果にしかでてこない。
それにまた、色んな人が色んな意見をするけれど
ほとんどはその時の最大瞬間風速に耐えきれるかどうかで
頑張って自信持って立ってれば
1年後にその時の自分を思うときがやってくる。


私は去年の今頃、本当にものが食べられなくなって6キロ痩せてしまいました。
ストレス的なものだったので、見るからに不健康そのもの。
味せず、欲さずだけど自分ごと以外にも考えなくちゃいけないことがあったので、何とか
気力を振り絞って立ってました。

小学生の頃占いで
【あなたは大器晩成です】とあったのを強く覚えてるんですけど、事あるごとに私はそれを痛感してきました。
壁は人を成長させると言うけれど、そんな辞書に載ってそうな文字は、まさにその瞬間にはただの嫌な味がするだけで一つの旨味にもならない。

だけどふとした時に
めちゃくちゃ味がしてきたよ。
苦すぎて、今思い出しても吐き気がするくらい。



自分が食べるものに無関心であってはいけない。
どんな風でもそれがどんな風味なのか
感じておいたほうが良い。


それから、今自分が食べているもの、食べさせられているものが何なのかを知ることは、
その場の雰囲気だけに酔った味の感覚に左右されない、
強い感覚を作ることが出来るから、無意識に慣れない方が良い。


その場の傾向に流されないことと
誰でも自分の味覚はあって普通なこと、それを誰もが楽しめること。

そう分かってれば、一度食べてみてダメだったものでもまた近づくことはあるかもしれない。


ただ、昨年の毒はもうこの先二度と
口にすることはありえない。

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