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"ゆでガエル"たち

「茹でガエルの法則」や「茹でガエル現象」と言われるものをご存知だろうか。カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出し逃げるが、カエルを入れた水を徐々に温めていくと熱湯になっても危険に気付かずにそのまま死に至るというお話。ビジネスや環境問題などに広く使われる例えだ。

 あちこちで人から聞く話の例えにちょいちょい入っているので、なるほどと納得したけれど、実際のカエルはそうではなく飽くまでも例え話で寓話であると知ってちょっとガッカリした。
 でもカエルに関しては真実ではなくても、人は正にその通りだな、と改めて納得。さすがに「茹で人」なんてリアルで怖いから例えはカエルで良いのかも知れないけれど。

飛び出した子

 ある子どもが、毎日繰り返される「ここまで来ないと落第だぞ」「そんなだから成績も上がらないんだ」「今のままでは大学受験失敗するぞ」という声にどうしても馴染めずに、心を失いそうになった。
 彼には夢があった。大学進学が必ずしも必要ではない夢だったけど、その夢に向かうことよりも大学入試の方が自分にとって100%大事でそのために生きることを強いられているような日々に、彼は夢を見るのを止めることにした。
 
「もう夢を追うのは、やめようと思う」

 それを聞いた両親は慌てた。彼が小さな子どもの頃から貫いてきた夢。それを嬉しく見守ってきた。彼が必死で学び練習してその夢に手が届きそうなのに、彼はその夢を手放そうとしていた。
 彼の目は虚ろで、心が消えてしまいそうだった。

 両親は彼と話してその場所を離れることにした。
その場所はきっと、彼の場所ではなかった。友達もたくさんいた。特別辛い思いをした訳でもない。でも、100%大学入試を目指すために学びや日常生活、生活態度まで全部管理された場所で、彼にとってのその場所は熱くなり過ぎて、彼の心は瀕死だった。でも逃げ場も見付からない。彼の視野は驚く程狭くなっていた。

茹でガエル

 彼が最初飛び込んだ水は、徐々に彼の思っていない方向に熱を増していった。それが熱湯になる直前で、彼はつぶやいたのだ。幸い、彼の心は死なずに済んだ。彼は声を上げ、その彼の手を掴んだ両親がいた。両親も高校は若い3年間を楽しむ場所だと信じていたので、そこまで追い立てられることや、それが彼にどれだけ大きく影響するか、などは想像もしていなかった。それまで見たことがなかった彼の目に、「今引き上げないと」という危機感があった。
 子どもにとってはもちろん、親にとっても未知の領域。目の前のこの子だけの生き方にフォーカスしなければ。大きな賭けだった。周りの親たちは「勇気ある行動だ」と半ば呆れた様に言う。でも、彼らは息子の心を死なせたくなかった。

 彼は再び夢を追い始めた。夢を叶えることはもちろん大切だが、彼が今を生き生きと自分を磨きながら生きていることを、ただ両親は嬉しく見守っている。彼の口からは「幸せ」という言葉が自然に漏れ出す。

 時に、自分の居場所が違うと思いながらもそこから抜け出せない子どもがいる。ちょっと立ち止まりたいと願ってみても、ものすごい勢いの流れに押し流されて、出ようとしても周りが手を掴むどころか流れに押し戻す。自分の意思とは反してただその流れの中にいる子ども。周りを見るとたくさんの子どもたちが自分の舵を失ったまま流れの中に浮かんでいる。激しい流れの中では、互いの手も取り合えない。

 この水が熱湯に変わる前に声を上げられたら。その時に手を差し伸べる人がいてくれたら。この子の心は死なずに済む。

情報の怖さ

「不登校」とか「退学」とか「通信高校」とかがネガティブな色で紹介され、親たちはそれを恐れる。うちの子がそうなったら、どうしよう。
まるで何か流行病みたいに恐れられ、毛嫌いされ、そうならない様に気をつけよう、みたいな価値観に囚われて怯えている人も多い。

 でも私はこう捉えている。「不登校」「退学」「通信高校」...多くの人が「普通」「まとも」と思い込んでいること以外を選んでいる人たちは、自分の心に忠実なのだ。流れの中からちょっと這い出して、休憩している人たち。この流れはどこに繋がっているのか?自分に合っているのだろうか。って立ち止まってゆっくり考えている人たち。
 まだまだ人生は長くて、この流れにそのまま呑まれ大人になってから心が死んでしまう人が急増している。そんな今、本当にこの流れに乗っていて良いのかな、と立ち止まること、水が熱さを増していることに気付く力は大切な「生きる力」と言える。
 それを無理やり本人のタイミングを無視して流れに戻すことは正しいのだろうか。そして自分が経験したことがないから、と子どもの声を無視するのは、子どもにとって良いことなのか。

一人一人違う

 これを読んで、怖くなった人もいるだろうが。その流れが合わない人もいれば、合っている人もいるということもお伝えしておきたい。日本の歴史に育まれたこの流れが合う子だってもちろんいるのだ。その中で楽しく学び、切磋琢磨して自分を磨き、その夢を見つけて幸せに生きる子どももいる。その子にとってのその水は熱湯ではなく、ずっと心地よい温度なのだ。

 私がこのお話の中でご紹介したのは、そうでない人のこと。同じ流れの中にいても全員が幸せとは限らず、同じ方法で全員が100%うまくいくとは限らない。そこに居心地の悪さを感じている子、違和感や疑問を持ったりその湯の熱さに耐えられなくなった子どもたちの存在は常にある、ということが忘れられがちなので、ここで彼らにフォーカスした。
 一番悲しいのは、熱くても苦しくても声を上げられない子。声を聞かれない子。流れに呑まれるしかない子。その流れの中にいるしかない子どもたちが出す小さな「熱いよ」「苦しいよ」の声をキャッチ出来る大人がそこにいて初めて、その子どもたちは救われる。その声の出し方も様々だから、いろいろな角度で大人が関わっているのが好ましい。そのための社会で、そのためのプロフェッショナル。でも今はその社会もプロたちも、同じ流れの中で苦しんでいるケースが多い。大人でさえも声を上げられない、声を拾われない社会。

 みんなと一緒に流れに乗ることが成功で、途中で助けを求めたら失敗、なんて環境は絶対に作ってはいけない。それは大人になった子どもたちを更に苦しめ、そのまた子どもたちの声をも聞けなくしてしまう。
 今声を上げている子どもたちや、自分のための選択をしていく子どもたちも、流れの中で楽しく学んでいる子どもたち同様、大切に社会が育てていくべきだ。学び場の多様化も、今後広がっていくだろう。
 「不登校」なんてワードが早く過去のものになることを、心から祈っている。

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