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Be you.

 ある人との語らいの中で、ふと自分の言葉に納得した。
人と会話をしていると、会話に乗せて自分の中から出る言葉にしばしばハッとさせられることがある。

理不尽の巣窟

 私が自分のことをとても嫌いだった時期がある。比較的自己肯定感高めに伸び伸び育ってきた私だったが、思わぬところに落とし穴があったのだ。
 それは中学・高校などの学校生活の中。
家庭の中では私は私で良かった。自分でも満足していた。ただ、学校にはいろんな価値観が渦巻いていて、その中でも支配的に大きなものから、ほんの数人の中での小さなものまで様々だった。そのどれもが自分にフィットしないことに居心地の悪さを感じたのだ。学校の謎ルールにもうんざりだったし、それを守らされている時点で私は大人から何の信頼もされていないことを感じていた。どうせお前たちが髪をのばしてもいじって勉学に励めないだろ、とかどうせお前たちがマフラーを巻いて自転車に乗ったら危険しかないだろ、とか。私のお気に入りのマフラーは先生に没収されたっきり帰ってこなかった。マフラーを没収する前にどうやったらマフラーをして自転車に安全に乗られるかを一緒に考えられたら、もっともっとクリエイティブだし私たちだって良いアイデアいっぱい出すのに。それで難しさを感じたら、やっぱりマフラーはNOだね、ってなれば良かったのに。
 大人たちが効率重視で選ぶことは、私にとってはナンセンスそのものだったから、「生まれつきです」っていう証明書を出してもらって髪を茶色に染めて学校に行っていた。でも他の生徒と何の違いもなかったし、私が誰に迷惑をかけることもなかった。私はそれが知りたかったのだ。私が子どもの頃からコンプレックスに感じていた白髪を茶色に染めることで、私がどれだけ人に迷惑をかけるのかを。

 でも大人には迷いが見えた。大人たちは「本当はどうでもいいだろ」と思いながらもあれこれ理由をつけては私たちに命令していたけれど、それでも本気じゃない感じが見えた。私はそれで良いと思っていた。それが良いと思っていた。本気で「髪染めたら学校が荒れて教育現場として機能しなくなる」って思ってるならそっちの思い込みの方が怖い。時々そういう先生いるけど、子どもを知らな過ぎだ。
 そもそも髪の色や靴下の色で学校がダメになるなら、それは元々他の理由があるんだと思う。もう大人になって随分経つが、今尚そう思っている。

一番怖い塊

 でも私が一番怖かったのは、小さな価値観の集合体であるクラスだった。楽しくないのに笑っている人たちがいて、惰性で悪口言ってる人もいて。
私は人の悪口を聞くのが苦手。「良い人」とかじゃなくて、ただ嫌いなのだ。それが本気で苦しんでいて心の奥底から出る声ならまだしも、ただ喋ることがないから友達や先生の悪口でも言ってみるか、という軽いものだから余計にしんどい。だったら喋らなくてもいい。だったら一人でもいい。
でも一人になる勇気がなかった。
 だって、「友達いっぱいいる方がいい」って価値観がそこにはあったから。私はいろんな価値観にもみくちゃにされながら、楽しくもないのに笑い、簡単に悪口を言っていた。

 今考えてもその時の自分が一番嫌いで、あの時の自分に出会ったらハグして「無理しないでいいんだよ」って言ってあげたい。

自由の身

 私が初めていろいろから解放されたのは、日本ではなくニュージーランドでだった。そこに私を当てはめる型はなかった。最初は怖かった。今まで何か自分には必ず「はい、ここにハマって」という型があった。人が期待する自分がいた。でもそもそもホームシックで泣き続ける日々から始まったニュージーランドの生活で、私はゼロ以下だった。私は誰からも何も期待されていない。言葉が違うことで、私は更に救われた。英語でも日本語でもないつぶやきを心の中ですることが増えた。そこに向き合える人も頼りになる人も自分しかいない。私は今まで向き合ってこなかった自分自身と対話を始めた。そこで見えたのは、自分という面白い存在。私ってなかなかいいところある。結構頼りになる。
 それから友達が増えても、私は言いたくないことは言わなくて済んだし、笑いたくない時は笑わなくても良かった。自分には自分という強い味方がいたから。自然に笑いが出てきた。心が透けていく気がした。

好きになった人

 私が好きになった人は、飾らない人。その飾らない雰囲気と不器用さに強く惹かれた。その人はきっと私のことをなんとも思っていなかったし、そもそも自分をよく見せようともしていない感じがした。だから、私にとってその人は輝いていた。自分らしくいることで得られるものは、真の友人。真の理解者。
それとは逆に誰にでも好かれたい、みんなと仲良くするのが良いことなんでしょう?とあちこちでバカ笑いをしていた私は、この人の素の姿に強烈に惹かれたのだと思う。そしてそれは30年経った今でも間違っていなかったと言えるし、年を重ねて二人一緒に幼な子に戻っていく過程の中でその大好きだった素の部分がより魅力を増していることにも気付いている。

 今私が若い方に何か伝えられるとしたら、「怖がらずに自分のままでいたらいい」と言いたい。
もちろん大勢でいる安心感や楽しさが自分の素だ、という人もいるだろう。でもそれと同時に私の様に、たくさんの価値観の渦の中で自分を見失いかけている人がいるなら、一旦その渦を離れてご覧、と言いたい。
 そしてあなたがあなたらしくいることで、本当にあなたの良さを愛する人があなたを見つけやすくなると思う。友達であれ恋人であれ、あなた自身であれ。

Be you.

 一人になるのが怖いのは淋しいから?それだったら誰かと一緒にいたら良い。それが今のあなたに必要なことなのかも知れないから。
でも、もし一人になるのが怖い理由が「友達がいない自分はダメなやつ」っていう根拠のない不安だったら...
「友達100人できるかな」と言われて育った私たち。人と一緒にいることこそが正義だと思い込んでいたら、一人になりたくてもなれない。

 我が子が小学生の時、とあることで出会った心理学の先生が「一人を楽しめる子も素晴らしい」と言われていたことが今でも心に残っている。
 価値観はいつも誰かの思い込みから始まる。「一人でも楽しめる子は素晴らしい」と言われただけで心が落ち着いて、急にそれがとても良いことの様に感じてしまうこと自体、本当に情けない話だけれど。事実私はホッとした。自分の子育てが間違っているのかと真剣に悩んでいたから。自分自身もママ友の輪に入っていけなかったから。
 でも、こうやって心の中から自分を苦しめる不要な「価値観」を捨てていけば、本当に自分に必要なものが残る。我が子も私も自分を偽ってまで友達100人作ろう、なんて価値観の中にはいない。堂々と一人を楽しみ、そんな私を愛してくれる人と一緒にいる。100人ではないけれど自分には十分だ。

 どんな形であれ自分らしくいるあなたは、本当に心の安らぎを手に入れられるだろう。友達100人作らないと、というプレッシャーから解放されたら、自分に必要な環境に近づける。そうやってゆっくりマイペースに自分自身を強い味方にしながら、少しずつ切り拓いていけば良いのだ。

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