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オンライン授業が開く扉

 新型コロナウィルス感染症の自粛による授業のオンライン化、恐らく私は一番最初の辺りに始めた部類であろうと思う。良し悪しの問題ではなく、それは私がお月謝をいただいて授業をしている英語教室の運営者だから出した決断であって、私も当然2020年2月下旬から公私ともにあたふたした日々を過ごしていた。

 慣れないzoomの使い方と、それを使って自分らしい授業をどこまで出来るか、レッスンプランは普段とは少し違う形にして。と、今思うと一週間程の間に我ながらよくやったと思う。
 あたふたして1ヶ月を終え、2ヶ月が過ぎ、世間では連休。私もオンラインレッスンの流れに慣れてきた頃、学校が動き出した。

 最初は混沌としていた。我が子の授業を見ていたけれど、zoomの使い方がわかる先生が仕切って先生方が交互に画面に登場する。心の中でエールを送っていた。twitter界隈ではオンラインに翻弄される先生方の苦悩が見え、facebookでは「オンライン授業」の是非の議論が盛りがってきた。
 いずれにしても教育に携わる人は公も民間もみんな、突然新しい扉を開くことになった。

 私が素敵だと思ったのは、考える指導者たち。どうすれば教育を良い形で届けられるかを試行錯誤。逆に残念に思ったのは、そのトップの舵取りのおかしさ。
 最大の残念は国の舵取りだったのだが、そこから文科省、各自治体とトップダウンの教育界ではおかしな舵取りをする人たちの「今まで」が際立った。今まで何を大切に政治や教育に携わってきていたか、が露呈したのだ。

 自分の手柄重視だった人、出世重視だった人の舵取りは、見事に生徒のニーズや現場とかけ離れていて、混乱を招いた。
 そんな中、独自で動いて成果を出す例も多く見られて頼もしかった。zoomでは届かない子どもたちに、youtubeでの授業提供の一例を見た。各教科の先生方が10分程度の授業をyoutubeに上げて生徒はそれを見る。その時に先生が作ったワークシートを一枚仕上げるという形。
 先生がすることは、10分程度の動画と関連ワークシートを作ること。生徒はそれを見ながらワークシートを埋めていくので、10分程度の動画を止めたり戻したりしながら約1時間学ぶこととなる。
 ここで感心したのは、子どもが自分のペースで動画を止めたり戻したり、進めたり出来ることだ。これは自発的な学びに繋がる。

 これだけなら「じゃ、もうこれからは家を出なくても良い」となるのだが、そうならない部分はこれが提出必須の課題であることだ。先生に提出をして何かしらのフィードバックがある。逆にそれがないと、この課題に手をつけず動画すら見ない生徒も出てくるだろう。

 ここで課題を見てくれる誰か、人と人との温もりや会話があって学校の意味が出てくるのだろうと感じた。学校に行ったは服の裾がちょっと出ているから、眉毛に髪がかかっているから、と先生から囲まれ怒鳴られているようでは子どもたちの足は学校から遠のく一方だろう。学ぶだけなら家で課題をしている方が良い。

 アフターコロナでは、教育が変わると言われている。休校中は生徒は自分のペースで誰に許可を得ずともトイレに行ったり飲み物を飲んだりしながら動画を見て、自分のペースで学ぶ。課題を提出する先は人間。人の温もりに触れながら、尚且つ自分のペースも守られる安心感。完全にこの形にはならないとしても、「お茶を飲む時間」「服の枚数調整」「トイレに行く緊張感」など集中の妨げになる「闇雲に統一すること」や、それを必要以上に脅し咎めることの意味について、指導者も学校も再度考える良い機会になるだろう。
 ずっと頑なに守られ続けてきた悪しき伝統が、今の混沌で変わると良い。少なくとも「なぜこれが必要なのか」を指導者がしっかり考えて、納得行った形で指導に当たることが大切であり、「学び」を中心に考えるのであれば何を大切にすべきか、改めて各現場で議論されることを期待する。

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