あなたの願いは聞き入れられた(ルカによる福音書 1章5節~17節)

 先週からルカによる福音書の連続講解がはじまった。先週は、1~4節でテオフィロへのあいさつ文から御言葉に聞いた。テオフィロという人が、主の福音に出会い、その教えが確実なものであることをよく分かっていただきたいために、最初から順序正しく報告する、と言われている。一般的には、自分の思いが高まって人に伝えるので、ある部分が誇張されたり、削除されたりする。ルカによる福音書では、冷静に客観的に、何人もの人から取材をして、順序正しく書き連ねることを目指している。ルカが医者であることを知っている。聖路加病院が、このルカに基づいていることを知っている。人から聞いたことをなんとなく書いたのではない。自分の思ったことを誇張してしまうタイプの人だったとも考えなくて良い。このルカによる福音書を読むときは、冷静に、客観的に、複数の人が見聞きしたものについて書いてあると理解していってよい。そのルカが、福音の最初として記したのが、この箇所である。
 イエスの公の生涯である30歳からではなく、系図を書き連ねるのではなく、福音のはじめとして、人々が目にして耳にした福音のスタートとしてふさわしいと考えたのが、この物語なのである。他の物語も重要だが、どの物語をスタートにしたのかを興味を持って味わったらよい。だれが、考えてもイエス様から始まるべきでないかという人がいるかも知れない。しかし、今日の1章17節に書かれている。

 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。
 それが、バプテスマのヨハネの役割であった。だから、イエス様の話の前に、バプテスマのヨハネの話からはじめなければならない。そこで、ヨハネの誕生物語がここに入れられた。福音書の最初を飾るに相応しいと思って、ここに入れている。今日は、そのことをしっかりと味わっていきたい。

 ルカ1:5

 ヘロデ大王である。イエス様が生まれたときに、ユダヤの王だった人である。イエス様の誕生。エルサレムの神殿は、このヘロデが建築したものである。ソロモンの時代にはもっと低かった。ヘロデの時代に、あんなに立派にした。ローマ帝国の中にありながら、知恵をつくして、独立国家のようかのようにふるまっていた、王である。傑出した才能の持ち主であった。そういう王として評価してよい。属国の中にありながら、独立的にふるまえるようにした。しかし、多くの人はこの王のことを嫌いである。3人の博士が去った後にイスラエルの二歳以下の男の子を全部殺したのは、彼である。

 問題は、ザカリアという人である。その妻エリザベトは、アロン家の娘の一人とある。モーセの神様から聞いた言葉を民衆に語ったのは、アロンである。モーセの兄である。簡単に言えば、エリート中のエリートである。二人とも非のうちどころがなく、エリザベトは不妊の女であり、歳をとっていた。

ルカ1:8~9

 主の聖所に入って香を焚くのは、特別な職であった。一生に一度も、この香を焚く役目が回らずに死んでいくものもいく。奥の至聖所である。そこにあるのは、モリヤの山の岩である。そこで、神様のために香を焚く。ザカリアには、その役割が回ってきたのである。
 皆が外で祈っていた。いまは自由祈祷なので、何を祈っても構わない。ご存知のように、カトリックの方々は式文祈祷である。教会へ行ってお祈りする。プロテスタント教会は、教会に行かなくてもお祈りができるので、教会には鍵がかかる。この時代には、神様に対して祈るとは、基本的なお祈りのパターンがあった。それを逸脱するのは、特別なことであった。外で祈っているというのは、イスラエルの救いであった。救い主が来ること。そして、イスラエルが救われて、神の国として立つこと。祭司たちの指導のもと、間違えたことを祈らないように、訓練されていた。詩篇が朗読されていた。ザカリアは至聖所で香を炊き、民衆は祈っている。そこで、主の天使が現れ、香壇の右に立ったのである。

ルカ1:12~16

 ザカリアの願いとは何だったのであろうか。外で祈っている人たち、祭司たち。イスラエルが救われることであった。主の前に立ち、独立を果たして、救い主がやってきて、自分たちを開放してくれることを祈っていた。
 ザカリアが祈っているのは、イスラエルの救いである。神の民として生きることができるようになることである。ローマのカエサルを神とすることなく、税金もローマに吸い取られること無く、イスラエルが国として独立することであった。しかし、天使が言ったのは、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」
ザカリアが個人的な願いをしていたのであろうか。ありえない。しかし、天使は「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と言ったのである。個人的な話ではない。ここが、この物語の肝である。
しかも、こうかかれている。「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子どもがなく」当時は、こう考えられていた。神の前に正しい人に、子どもが与えられないはずがない。救いは、その父母が死んだあと、子によって受け継がれる。子どもを通して救われると救われると信じられていたのである。子どもがいないと救いに入れられない。子どもに恵まれているということは、正しい人生を生きてきて、祝福に入れられている証である。
彼らは救いから漏れた二人だったのである。神の神殿に入って祈らなければいけないイスラエルの救いの中に、入れられていなかった。二人のふるまいは非の打ち所がなかったが、子どもがいないことで、まわりからは、実際のところは何かあるのではないか、と見られていたのである。
エリサベトの言う恥とは、子どもが与えられなかった恥ではなく、救いに入れられないという何らの事情があると人々から思われていた恥だったのである。

 ザカリアは、香を焚く役割を老人になってから与えられた。くじびきとは、主の選びということである。自らが主によって、拒絶されている救いについて、民衆を代表して祈るというザカリアの心情はいかばかりであったか。これが、ルカによる福音書の最初の物語なのである。イスラエルを救ってください、と祈り続けていたザカリアに、あなたもその救いの中に入れられることになったのだ、と言われたのである。あなたも、神の国の中に入れられる存在になるのだ。それが、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」というメッセージなのである。神様から拒絶されると思っていたザカリアが、神の救いに入れられるという体感できるメッセージは、子どもが生まれるということだったのである。私たちは、いまはそう思っていない。
 この福音のすばらしいことは、彼らの知っている知識の中に入ってくださっていることである。こうしなければ救われないと思っている。その人の心の中にまで飛び込んできて、天使ガブリエルが、あなたの願いは聞き入れられたと言っているのである。最後は救ってあげるから安心しろ、と言ったのではない。神様は、あなたの知っている知識にしたがって、子どもを与えることを決心されたよ、と言っている。これが、聖書の福音である。いろんな仕方によって神様と出会う。病気が癒されて、知的な欲求によって、なんとなく体感して。いろんな仕方がある。神様は、その心にしたがって、ちゃんと福音をくださる。そのときに、怖がらずに神の言葉に耳を傾けることである。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた、と言っている。
 そこで、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」と。だから、口が聞けなくなったのである。神様に向かって疑わない。神様に向かって心を開く。それだけである。ちゃんと神様の話を聞こうと思わなければいけない。耳を傾けないと。ちゃんと耳を傾けたところに、本当の喜びが与えられた。そのことに信頼しよう。
(2011年10月23日 釜土達雄牧師)

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