なんと幸いでしょう(ルカによる福音書 1章39節~45節)

 マリアがエリザベトを訪ねる。そのときに、エリザベトがマリアに言った言葉が、今日のテキストである。

ルカ1:42~45

この一言、一言が恵みと喜びに満ちている。エリザベトは、年老いていた。高齢出産である。それに比べて、マリアは20前の女性であった。そして、この二人は親戚であったことが、天使ガブリエルによって語られている。マリアが出かけて行って訪ねるような間柄の親戚である。3ヶ月も長逗留しても許されるような家であった。これが、マリアの親戚のエリザベトの家であった。祭司の家である。地域の名士である。3ヶ月間、マリアが滞在しても叱られることのない間柄であった。自分よりも、一回りも二回りも下の娘に、「私の主のお母様が来てくださるとは」エリザベトが、マリアをどのように見て、マリアとはどういう人物だったのか。どのような女性であったのか、見ておくことはよい。しかし、そのマリアがどのような女性であったのか、ほとんど書かれていない。背は高かったのか、痩せ型だったのか、分からない。臨月の躰でロバに揺られて、一人で馬小屋で出産できるほど、体力のある田舎娘であったことは確かである。よく描かれるような華奢な女性であったかというと、少なくとも聖書からの印象では違うと想像できる。
アロン家の家だったとはいえ、貧しいヨセフのところに嫁ぐ。分かっていることは、ただひとつである。神様が一方的に選んだということである。どうして選ばれたのか、と問うのは、これこれだから、というところを考えたいから。清く正しく美しく、だから、マリアは選ばれた、と理解をしたい。しかし、それについて聖書は口を閉ざす。どのような理由があろうと、神様がマリアが選んだのだ、という事実だけが大事にされている。主があなたと共におられるということであり、主が選ばれたということである。家柄も、過去も、いまの状況も一切かかわりなく、主が一方的にマリアのお腹の中に宿ったのである。
クリスマスなので、あまりにも当たり前である。このマリアの実態をよくよく味わっておいたほうがよい。なぜ、キリスト者になったのか。教会にいくことになったのか。受けたほうがいいのか、いけないのか。受けることには何かメリットがあるのか。受けるとなにか変わるのか。教会の神様とは何なのか、イエス様とは何なのか。いろんなことを考える。神について考える、人生について考える。愛する人について考える。神様との関係について考える。クリスマスとはそういうものである。
そのときのマリアは、そのような思いから全く解放されたところにいる。神様の方から一方的にマリアのところにやってきて、「身ごもって男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい」一方的である。これが、信仰ということである。これが、キリスト者として生涯を歩むということである。私が神様を選んだのではない。神様が私たちを選び、一方的に立てられた。なぜ、ほかの宗教ではなく、キリスト教なのか。分からない。すべてのものを支配されている神様が、わたしにこのときをお与えになった。だから、気がついたらキリスト者として生きている。マリアだけではなく、私たちの人生そのものなのである。
「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは、神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を有無が、その子をイエスと名付けなさい。」
この会話の噛み合わないところが面白い。神様から恵みをいただいている者たちの、姿がある。これを言われているときは、全然恵みだと思っていない。神様が恵みをお与えになっていると言っているときに、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言ってしまう。神の一方的な選び。マリアがどういう人物であったか、ではない。神様が選んだということが最も大事なのである。そのマリアがエリザベトのところに行くのである。
幼稚園の仕事をしているので、小さな子どもを持っているお母様と出会う。いま、七尾幼稚園でも出産ブームである。お腹の大きなお母さんと話をする機会がよくある。女性同士では、いろいろ話をしているようである。これから子どもを産む人たちの堂々としていることはなかなかのものである。妊娠しているときは、怖くないという。暗い夜道も怖くない。一人ではないから。マリアは、それを体感していた。主が共にいてくださるということ。それを体感している。そのマリアが、出かけて急いで山里に向かい、ユダの町に行った。エリザベトに挨拶した。「あなたは、女の中で祝福された方です。体内のお子様も祝福されています。」と。マリアの妊娠をエリザベトは知っていたのである。

マリアの事柄が明らかになったのである。だから、夫ヨセフはひそかに縁を切ろうと考えた。だいたいの時期は想像できる。エリザベトが、声高らかに「あなたは、女の中で祝福された方です。」そう言っていた頃に、実は夫ヨセフは縁を切ろうと考えていたのである。だから、ヨセフのところにガブリエルが現れる。もっとも祝福されるべきときに、もっとも不幸が訪れる。天使の働きがなければ、そうなってしまう。神様の祝福とは、人間的な目で見たら、本当に危ういものなのである。マリアの挨拶をエリザベトを聞いたときに、体内の子が踊った。この胎内の子は、バプテスマのヨハネである。

ルカ3:1~17

これが、バプテスマのヨハネである。蝮の子らよ、と呼びかけて、神の怒りについて語る。イエスキリストを指さす人物として地上に送られた。そのヨハネが、エリザベトの胎内にいるときに、主イエスキリストを認知して、胎内で喜び踊ったというのである。なんとクリスマス前の面白い物語であろうか。しかし、クリスマスの生誕劇で、この話はほとんど出てこない。クリスマス物語は本当に、オールスターキャストである。マリア、ヨセフ、天使ガブリエル、羊飼い、3人の博士など。しかし、このザカリヤやエリザベトは登場しないのである。そのエリザベトがこう語る。「あなたは女の中で祝福された方です。」私の主のお母様が、私のところに来てくださるとはどういうことでしょう。マリアの訪問を心から喜んでいるエリザベトがここにいる。なぜ、女の中で祝福されていると語るのか。なぜ、こんなに感激しながら語っているのか。マリアが立派だったからだろうか。美しかったからか。信仰深かったからか。そうではない。一方的に、主に選ばれて、主と共にいてくださるからである。そのことを単純素朴に受け入れていたからである。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」イエス様の母になる力があったから、喜んでいるのではない。一方的に選ばれて、主が共にいてくださることを、神の全能の力と信じてここにいるからである。主と共にいることを喜んでいるマリアと共にいることをエリザベトは喜んでいるのである。

わたしたちは、キリスト者として地上を生きている。この礼拝堂の中から祝福を受けて、主が共にいてくださる者として散らされていく。お腹のなかにしっかりと主がいてくださるわけではない。しかし、主が共にいてくださる、と言われて押し出されていくものなのである。主が共にいてくださることを頼りに生きているのである。そして、それはなんと恵みのあることかとそれぞれの立場に散らされていくのである。主が共にいてくださることは、主が恵みを与えてくださっていること。マリアと同じように、それぞれの立場に押し出されていく。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。必ず実現してくださると信じ、恵みによって導いてくださると信じて生きている者である。そんな私達がどれほど幸いなことか。そうなんだ、と思うだけでなく、神様が共にいてくださることを味わったらいい。味わいながら、この会堂から押し出されていこう。
(2011年11月20日 釜土達雄牧師)

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