あなたがたへのしるし(ルカによる福音書 2章8節~21節)

 聖書には、私たちの主イエスキリストの生涯について書かれてある福音書が4つある。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネである。いま聞いているのはルカによる福音書である。4つの福音書には、それぞれ特徴がある。ルカの冒頭には、このように書かれている。

ルカ1:1~4

 ルカは、医者であった。医者であったルカが、すべてのことをはじめから詳しく調べ、順序正しく書いて、テオフィロという人物に献呈したものである。テオフィロはローマの高官である。ルカが、テオフィロに対して書いた報告書である。ポイントは、はじめから詳しく調べ、順序正しく書いて、献呈したということである。正確であるということが最も重視された。クリスマスの物語が書かれているのは、4つの福音書のうち2つだけである。マタイとルカである。3人の博士の物語はマタイによる福音書、羊飼いの物語はルカに描かれている。ルカによる福音書の著者、ルカが1章と2章でクリスマスの物語を描いている。クリスマス物語は、2章20節までで一区切りである。クリスマスで聞くべき大事なことは何だったのか、順序正しく正確に書いていったルカが、報告書の中でひとつの結論部分をなしているのが、今日のテキストである。クリスマス物語について、そこで起こっていることは何なのか、その結論部分を本日、聞くことになる。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
 この箇所は、私がある意味とても大好きな場所である。クリスマスと、聖書の中に出てくるクリスマスには、相当なギャップがある。サンタクロースもクリスマスツリーも聖書のクリスマスには出てこない。だいたい樅の木は、この時代のパレスチナにはなかった。後の時代になって、サンタクロースの物語もそりの物語も、トナカイの物語も出てきた。
 なぜ番をしていたのか。このあたりに狼などいるわけがない。一日のはじまりは日没からであった。12月25日だが、今日の夜は12月26日である。12月24日の夜が、クリスマスの夜なのである。サンタクロースがいつくるのか、間違えないで、と幼稚園のお母さんたちに話をする。私たちの主イエスキリストが生まれたのは12月25日ではない。その証拠が、この箇所にある。羊たちが夜通し番をしていたのは、羊が出産を控えていたからである。羊が出産するのは、だいたい6月ごろだと言われている。では、なぜ12月25日がクリスマスとなったのか。それは、ミトラス教の神様、太陽神ミトラの誕生日であり、その日は奴隷たちのお休みであった。お墓に集まって、自分たちにとっての太陽である主イエスを拝もうとした。こっそりとひそかに、自分たちにとっての太陽、キリストの誕生を祝ったのである。2000年も続けると、こんなふうになる。私たちは、イエス様の誕生を祝うために、ここに集まってきた。
 まずクリスマス物語に登場するのは、羊飼いたちである。砂漠の地方において大切なのは、土地ではなく水であった。私たちは水の豊かな国にいるので分からないかもしれない。砂漠の民では、井戸を守るためには命がけの戦いをしたが、土地のためには、そうではなかった。井戸のある土地は、城壁で囲んで大切に守っていた。パレスチナのような場所では、城壁の中に町があった。羊飼いたちは、城壁の外で羊を飼っていた。彼らは土地を持っていなかった。城壁の外で羊を飼い、夜だけ城壁の中に入ることができた。出産のころは、夜も外にいたのである。しかも、羊も彼らの所有物ではなかった。土地を持たず、城壁の外にいる彼らを多くの人たちは蔑んでいた。イスラエルの王ダビデは羊飼いであった。アブラハムも羊飼いであった。自分たちの伝統は羊飼いにある。しかし、土地を持っていない羊飼いは蔑まれていたのである。日々の日銭を稼ぐために羊を飼いながらも、愛する羊のために城壁の外で夜通し番をしていたのである。
 第二に登場したのは、天使たちである。
 
 ルカ2:9~
 
このときの天使は一人の天使として描かれている。「民全体の喜び」として語った。一人の子どもが生まれたという事実。若い夫婦の喜びとして伝えたのではなく、民全体に与えられる大きな喜びとして伝えたのである。そのときの民とは、旧約聖書の民、イスラエルの民である。今から4000年くらい前のことから始まり、イエス様が生まれるまでの約2000年間の出来事が、歴史書、文学などの形で収められている。主の天使が羊飼いに向かって語る。ダビデの系統のその仕事を継続している羊飼いたちに語る。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。・・・これがあなたがたへのしるしである。」
 すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。

 幼稚園でも、ページェントをやる。一人の天使にやらせると子供たちがたくさんいるので、これを登場させる園もあるが、
 天使の大群ではなく、天の大軍と書かれている。天使に天の軍勢が加わったのである。これは、けっこう大事なところである。ルカは、わざわざ天使に「天の大軍」が加わって、こう賛美した。
「いと高きところには栄光、神にあれ。知には平和、御心に適う人にあれ。」
 神の御心に逆らう者と戦うのは、天の軍勢であった。地上を裁くために押し寄せてくるのは、天の軍勢であり、彼らが地上を裁く役割を担っていた。その彼らが、天使と共にやってきて「地には平和」と語ったのである。その平和は、イスラエルという国の民に語られるのではなく、「御心に適う人」に平和あれ、と歌ったのである。天使は、この羊飼いに向かって、民全体に向かって与えられる大きな喜びを伝える、と言った。イスラエル全体に与えられる大きな喜びを聞いた。そのあと、天の軍勢が歌ったのは、御心に適う人に平和あれ、ということだったのである。ルカがどのように伝えようとしたのかを、こういうところで読み取っておかねばならない。クリスマスが、なぜこのような大きな喜びになったのか。イスラエルだけに神との平和が訪れるよう、父なる神が図られた出来事が、クリスマスだったのである。私たちはこの地上を自由に生きることができる。父なる神の御心を尋ねながら生きることも、神様がどう考えようと関係ないと、無視をして生きることもできる。私たちは生き方を自由に生きることができる。民全体に与えられる大きな喜びを伝える天使は、天の軍勢と共に「御心に適う人に、平和があるように」と語ったのである。これが、ルカが伝えようとした大事なメッセージである。
 羊飼いたちは、天使が離れていったとき、このように話した。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」
 見に行ったのは、民全体に与えられる大きな喜びであった。メシアつまりキリスト、日本語で言うと救い主を見に行こう。出来事を見に行こうではないか、と。
 クリスマスの物語は実に不思議な物語である。私達のために救い主がお生まれになったという事実であった。そこに行くと、飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子を見つけることができる。救い主であるという証拠、民全体に与えられる喜びであるという証拠は、「飼い葉桶の中に赤ちゃんが寝ている」ということだけだったのである。それだけが、神様との間に平和がある証拠だと言うのである。多くの人たちが、てんでんばらばらに口々に言うのではない。律法学者たちが立証するのでもないのである。彼らが証拠だと言われたのは、馬小屋の飼い葉桶の中に乳飲み子が寝ているということだけだったのである。そんな頼りない証拠、それを見に羊飼いたちは急いで行って、見つけたのである。
 天使たちが言ったことが本当だった、とみんなに伝えたのである。私たちは天使を見たという話ではない。天の軍勢の話ではない。その天使や天の軍勢の言っていたことの証拠が飼い葉桶の中に乳飲み子を見つけるということで、その通り、そこに赤ちゃんが寝ていた、と言ったのである。本当にそこに神の子が寝ていた。これが、最初に福音に接したものたちの証である。
 その証を聞いた人たちの心をこう書いてある。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った、と。「何を言っているんだ、こいつらは」不思議に思った。同じように、健全な心を持って聞いている。赤ちゃんがそこに寝かせていたら、いるだろう。飼い葉桶に寝かせれば寝るだろう、と。しかし、それが「救い主」だと言うのである。その後、「しかし」と書いて、もう一人の人物の思いが描かれている。
「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
 天使たちが、そこにあかちゃんがいる。それが唯一のしるし。天使たちの語ったクリスマスの喜びは、本当になるに違いない。その話を聞いた人たちは不思議に思った。彼らは天使を見ていない。飼い葉桶も見ていない。私達も見に行こうとは思わなかった。しかし、マリアはすべてのことを見聞きしていた。何よりも、その子を生んだのである。クリスマスというのは、この喜びというのは本当に分からない。ずっとマリアにとっては分からないままであった。ガブリエルの言葉を聞いても、本当にクリスマスというのは、よく分からない出来事であった。自分の体で体現できたのは、主イエスキリストの十字架と復活の後であった。クリスマスの出来事に出会った時、ひとつひとつの出来事を手で触るように味わうのは大切なことである。これはどういうことかと不思議に思うことも大事である。しかし、もっと大切なのは、それは私にとってどういう意味があるのか、本当に神の子だったらどういうことになるのか、天使のひとつひとつの言葉や行動をすべて心に納めて、思いめぐらしていくときに、主イエスキリストに近づいていくことになる。多くの人々にとってクリスマスは神と出会う最初の出来事になる。しかし、それをちゃんと心に納めていくことが、大きな違いになる。思いめぐらしていくこと。神様という方が、自分にどう語っているのか、よくよく聞いていく人生でありたい。
(2011年12月25日 釜土達雄牧師)

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