ナザレの町へ(ルカによる福音書 2章39節~40節)

ルカによる福音書を読み進めている。最初にクリスマス物語があった。2章22節からは、少し大きくなったイエスについて聞いている。3章の1節からは、急にイエス様が30歳くらいになったところになる。来週は41節以降、少年時代のイエスについて。4つの福音書のうち、少年イエスについて書かれているのはルカだけである。そういう意味では、極めて貴重な箇所を読んでいる。クリスマスは多くの人々がお祝いをする。ひとりの男の子、イエスの誕生に限ったことではなかった。膨大な量の旧約聖書がある。すべてを読み終えた人があまりいないのではないかと思うくらいに、旧約聖書は、特に日本人にとっては不得手である。イエス様は、あちこちで聖書に基づいて話をされた。それは旧約聖書について話をしたのである。旧約聖書は、イエス様の誕生を予言するものとして描かれていた。

創世記12:1~3

イスラエルに行けば、アブラハムのお墓がある。この一人の人物が、イスラエルの歴史の中で決定的な意味を持っている。11章までは大いなる神話の中で語られる。紀元前4000年くらい前と言われている。12章以降は、紀元前数百年であり、歴史的事実である。ここで大切なのでは、アブラハムが神様を求めていたわけではないということである。人が神を求めたのではなく、神がアブラムに向かって語りかける。それが、聖書の物語である。「私が示す地に行きなさい」と。アブラムの気持ちや年齢は、考慮されていない。若い、歳をとっているとは関わりがない。必要な時、必要な人に、必要なことを一方的に語られる。神様が私たちの歴史に介入してこられるときの姿である。それは、こういう理由であった。
「地上の氏族のすべてが祝福に入るため」であった。
すべての人は、アブラハムを通して祝福に入る。祝福、簡単に言えば神様と共に生きることができるようになるということである。神様と共に生きることができる民は、地上に存在しなかった。創世記12章は、神様の方が、あなたによって私の祝福のもとに入れるとおっしゃったのである。これが、旧約聖書の持っている大いなる力である。イスラエルという国が、あの辺境の地でたてられた理由である。第一次大戦後に、イスラエルの人々が再びあの地で建国しようとした。自分たちが、この地上で神様の祝福の源であること、それが、彼らのアイデンティティなのである。そして、新しい契約について、書かれている。

エレミヤ書31章31~34節

新しい契約を結ぶときには、彼らを赦し、ふたたび彼らの罪に心を止めることはないとおっしゃったのが神である。これが、神の約束である。神様と共に生きられない存在、神を神としていない存在、大いなる罪人の存在に過ぎない。人から後ろ指は刺されないものの、神の私たちへの願いはそれだけではない。自分の思いの方が主になっているのではないか。神の前で私たちの清さが問われるときに、法律を守っているかどうかは、極めて小さいことである。
学童保育の小学生に話したこと。学校で人から嫌がられることはしてはいけないと習った。ゆりっこ児童クラブのお約束は違う。人が嫌がることをしないのは、当たり前。自分がしてほしいなと思うことを人にすること。
大人の人に言うと「なーんだ、簡単だ」と言った。何されたら嫌かは分からない。自分がしてほしいことは分かるから簡単じゃん!
 新しい契約。神様が私たちと結んで下さった約束である。それをイエス様が実行される。

ルカ 22:14~

 最後の晩餐とは、お別れの食事会ではない。エレミヤで約束された「新しい契約」こそ、最後の晩餐の意味であった。だから多くの人があの絵を書く。わたしたちは、この聖餐式を命がけで守るのである。カトリック教会は礼拝と言わず、ミサという。それは、この最後の晩餐の食事のことである。私達が、こうしてくださいと願って、聞き入れられたものではない。そうではなく、一方的に神様からあなた達と生きるためには、このようにする、と言われて、計画を実行されたのである。私たちの計画ではない。神様の計画なのである。数千年に渡る計画、それが聖書の中に語られている中身なのである。
 そして、クリスマス。多くの人にとっては、一人の人の誕生かもしれないが、私達にとっては、神様の預言が成就したときであった。だから、多くの人がクリスマスパーティをしているときに、わたしたちは、主への感謝のときを礼拝として守っているのである。

 今日の聖書の箇所におもしろいことが書いてある。預言の成就として神の子が地上に降りてこられた。神様が約束してくださったことが完成するその時に、イエス様を地上に贈って下さった。神ご自身であるイエス様が、人間が地上で行うすべての業を受容されたのである。神の子が胎児としてマリアのお腹の中に入り、出産を通して生まれることも、おむつを変えてもらうことも、おっぱいを飲むことも、お風呂に入れてもらうことも、風邪をひくことも、着替えを手伝ってもらうことも、全部受容されたのである。
 私達にとっては当たり前のことである日常も、神の子であるということを前提にすると、とても大きな出来事になる。割礼の事柄、神殿での祝福、清めの儀式。そして洗礼まで受けたのである。神様の子どもが、わたしたちと同じ人間として、この地上を歩んでおられる。これは、驚くべきことである。人間を神様にしたのであれば、驚くことではない。しかし、神がそれをするということになると、話は違う。なぜなら、すべてのことを作り、支配し、罪なき方が、私たちと同じ人間として宇宙の空間に入り、この時間の中を生きる。罪ある者と同じように洗礼も清めも受ける。これは、異常である。しかし、神様はこれを大事にされたのである。
 七尾幼稚園の教育方針は「愛されていることを知り、愛するものとなるために」である。その子供たちが、お母さんやお父さんから愛され、家族から愛され、近所のおじちゃんおばちゃんから愛され、そういう体験を通して愛するものとなっていくのである。クリスマスプレゼント大事である。お年玉も大事。愛されていることの証だから。愛されていることを実感するのは、食べ物やプレゼントだから。だから、たっぷり愛されて育っていくと、愛することができるようになる。イエス様は、神の子として地上に降りてこられたときに、この家族の中で生きるということを神様が決断されたのである。神の家族とは、マリア、ヨセフ、兄弟姉妹と共に生きている家族そのものなのである。ナザレの子どもイエス様という幼児賛美歌がある。とても、良い歌である。イエス様を体感できる。家族の愛情の中で神様がお望みになった。そしてそこにお送りになられた。お金持ちの家ではなく、貧しい家、職人の家に。15歳くらいからは、自分で兄弟姉妹や母親を養っていく長男坊として、神様はそういう家族の元にイエス様を生まれさせることを決めた。
 幼子は、たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 特別に注目をしたいのは「知恵に満ち」という言葉である。体の成長、心の成長に合わせて、彼のために必要なこととして「知恵に満ちていた」ということを書いた。知恵は、知識ではない。ちょうど、センター試験の真っ最中である。テストで答案を書くためには、知識は大切である。しかし、ルカは「知識にあふれ」とは書かずに「知恵に満ち」と書いた。知識があれば、この地上をちゃんと生きていけるということではない。近頃は、インターネットで、スマートフォンが普及した。ニュースも映像も、すぐに調べることができる。使いこなせないくらいの情報量である。イエスキリストを調べてみると、ものすごい情報量が出てくる。インターネットの世界に入れば、知識はいつでも得ることができる。しかし、その世界が人に愛情を持てるわけではないのである。この地上を生きていくためには、知恵は必要がないのである。
 昔から「愚者は、経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という。歴史の中で、転ばぬ先の杖にしていく。娯楽で見る人もいれば、経験の変わりとして読む人もいる。小説家とは、小さな説にすぎない。娯楽ではなく、歴史として読んでいくと、体験していないことを経験できる。

 イザヤ書11:1~5

 知恵があればよいというものでもない。だから、箴言はこう語る。
箴言 1章7節
北陸学院の学校を通して語られている。主を畏れることは知恵のはじめである。無知なものは、知恵をも諭しをも侮る。大事なことは、神様が私たちを愛していること。期待を持って望む。わたしはあなたたちをこう創ったのに、なぜあなたはそのような生き方をするのか。なぜあなたは私が与えた才能を用いずに生きるのか。なぜ、生きているのか。なぜ命があるのかを問うときに、自分で考えてはだめである。創った方に聞かないと。なぜ、あの人には、あの才能ではなくこの才能なのか。神様が教えてくださる。自分で考えていてもだめである。すべて創って下さった方に聞くのが当たり前。
聖書は、イエス様を地上に送られた神様について語る。すべて律法にしたがって、まったく私たちと同じ人間として、イエス様を贈って下さった。気づかないのである。神様の恵みに包まれていたことは。しかし、知恵に満ちていれば、神の恵みに対しても気づくだろう。神様の恵みが確かにあったことを確認しなければいけない。少なくとも、イエス様はそのように育っていったのである。
(2012年1月15日 釜土達雄牧師)

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