主があなたと共におられる2(ルカによる福音書 1章26節~38節)

 先週に引き続き、これが今週私達に与えられたテキストである。天使ガブリエルが遣わされた。神の右側に座るとされていた天使の中のトップ、ガブリエルが、「おめでとう、恵まれた方」と語りかける。名実ともに、主がマリアと共にいてくれた。そのことを信じることができなかったマリアは天使の言葉のほとんどを聞いていない。その言葉をさえぎりながら、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言う。それをガブリエルは「神にできないことは何一つない」と一喝する。それで、マリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と語った。これがマリアの素朴な信仰であった。

 エリザベトは、このようなマリアについて、こう語っている。主がおっしゃったことについて、
 神の全能を単純素朴に信じる信仰。それが、マリアの信仰であった。マリアがイエスを育てていくときに、実は、そんな単純な人生を歩んでいたわけではないということを確認した。悩みながら、このイエスを育てていった。貧しさの中で育てていった。そして、最後に十字架上で息子が殺されていくところを目にしなければならなかった。それが、マリアの人生であった。

 マルコ3:31~34

 イエスの母と兄弟たちが、やってきた。なぜか。その理由は、20節に書かれている。
 マルコ3:20~21

 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。イエス様を取り押さえに来たのである。あの天使ガブリエルから話を聞いていたマリア。エルサレムの神殿に行ったときに、何人もの預言者に、この子はこうなる、と聞かされていたマリアである。神の子として生まれたと知っていて、クリスマスの夜には、天使たちの賛美の歌声を聞いていたマリア。いよいよ、イエス様が公の生涯を歩み始められたときに、捕まえに来たのである。祭司の家柄に生まれたわけではないのに、いったい、何を言い出したのか、と取り押さえに来たのである。家の仕事をするのが長男の仕事だろう。何をしているのか、と。
 イエス様の言葉は冷たい。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えている。親子喧嘩というのは、高校生くらいまでにしておいてほしい。30歳にもなって、こんなに冷たいことは言わないほうがよい。これが、イエスの母マリアである。マリアの信仰深さが一生続いていたと考えなくて良い。信仰とは、迷うものである。神の言葉を聞いて、迷い続けていくのである。あの男は気が変になっていると言われて取り押さえてきたのは、母だからである。心配だったのである。しかし、その心配がホンモノになる。3年後のことである。人々に捕まえられて殺されていくのを目の前で見なければいけない母の苦しみとはいかばかりか、と思う。聞いていて、予感したからこそ、神の言葉よりも、我が子のことが心配だったから取り押さえにきたのである。この子に関する預言が本当になるかもしれない。母心である。自らの人生をしっかりと歩みだしたそのときに、イエス様を愛するマリアは、取り押さえにきたのである。その道に行ったら、死んでしまう。そのマリアの愛に対して、イエス様は拒絶されたのである。「私の母、わたしの兄弟とはだれか」
マリアの人生は、本当に味わっていただきたい。何もできないまま、イエス様の後をとぼとぼとついていって、十字架の元に立って、我が子が死んでいくのを見続けていたのである。十字架を見続けていたところに、マリアの信仰がある。天使ガブリエルを通じて言われた言葉がこれである。「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる」
 イエスの死を最後まで見届けることをわかっていた神と天使が、マリアに向かって語りかけたのが、この言葉である。恵まれているというのは、こういうことを言うのである。主があなたと共におられる、とは、こういうことを言うのである。苦しみや悲しみの只中から逃れることを言うのではない。苦しみの中で受け入れなければならないという現実が、「主がともにおられる」ということの意味である。主が共におられるというのは、この地上を悩みもなく、苦しみもなく、生きていくということではない。その道に行ってはいけないと思いながら、主が裁判につけられているときに、そこにいて、十字架上で息を引きと取られるときに、それを見続ける。
 そのすべてを見届けたがゆえに、復活の主とも出会うことが許されたのである。これが、マリアの生涯である。そして、全能の父なる神が、神子イエスキリストの生涯を十字架で終わるのではなく、復活によって、神にできないことは何一つないという言葉を聞くことになるのである。マリアの生涯に、自分の人生を重ねていないと、家内安全、商売繁盛でないと、神様が共にいないと感じてしまう。神の民に、最も大きな苦しみを与えている。神様から祝福を受けていないもののほうが、神様と共に歩まない民だったのである。どこの馬の骨だか分からないマリアをイエスの母にするのだから。なぜ、マリアが母だったのか、どこにも書かれていない。

 ルカ1:26~

 マリアは、どこの馬の骨だか分からない。しかし、ヨセフについては、書かれている。ダビデ家のヨセフと書かれている。王家の末裔である。そのヨセフが大工をしていた。しかも、猛烈に貧乏だった。イスラエルの統一王国のダビデ。その末裔がここにいたのである。それがヨセフである。歳をとるまで結婚もできないほどの貧しさであった。自分たちは、ダビデ家である。ダビデの子孫から永遠の王者が出ると言われていたからである。たくさん書かれているが、ここだけ見ておきたい。

 イザヤ11:1~10

 これが、キリスト預言である。誰のところから救い主が生まれるか、ずっと知っていた。エッサイの株から。すなわちダビデの家系から救い主が生まれる。招詞で使われている箇所。
イザヤ42:8~9
イザヤ46:3~4
イザヤ53:1~12

主イエスキリスト誕生の600年も前の預言である。マリアもヨセフも知っていた。この自分たちの家系の中から救い主が生まれることを信じて疑わなかった。彼らが何故に、イスラエルの中にあって、この家に生まれたのか、知っていたのである。
もう一つ、見ておかなければいけない箇所がある。約束の地に、モーセは入ることができなかった。これは、約束の地カナンに入れられる人々がいつも夢見ていた言葉である。

ヨシュア記1:1~9

神様の言葉である。ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」ガブリエルは、「主があなたと共にいる」と言った。マリアは何を言っているのか、思い巡らせていた。
ギリシャ語のイエスは、ヒブル語ではヨシュアである。マリアが何を聞いていたのかを聞いていなければならない。自分が嫁ぐ、ダビデ家がどんな家であるのか。多くの親が、自分の子どもにイエスと名付けた。それは、あのヨシュアが憧れだったからである。しかし、マリアは自分の子どもの名前を自分でつけることを許されなかった。神から命じられたのである。この子をイエスと名付けなさい、と。

 マリアに連なる大事なこと。私たちは、このマリアの人生が、マリアだけの事柄として見るのではなく、私達と深く結びついていることを知っていなければいけない。

 マルコ3:31~35
 見なさい。ここに私の母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 ルカ11:27~28
 むしろ、幸いなのは神の言葉を危機、それを守る人である。

マリアは、イエス様の母であった。苦しみながら母であった。自分が生んだ子だということから、神の言葉を聞き、それを受け入れ、それを守る者へと変わっていった。それが、母マリアの生涯だったのである。わが子が十字架につけられて殺されていく。このイエスを宿した胎ではなく、幸いなのは、私達一人ひとりであると語られたことは忘れてはならない。それを人生をかけて会得していったのがマリアなのである。押し出されていって、忠実に生きる中で、それぞれの場所で役割を果たしていく。主が共にいてくださるとは、こういうことである。
マリアの信仰への招き。私達もその信仰を生きる幸いの中にあるのである。
(2011年11月13日 釜土達雄牧師)

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