救いをもたらす神の力(ローマの信徒への手紙1:16~17)

 今日から、ローマの信徒への手紙の本論である。これまで、1章1~7節について、何度も御言葉に耳を傾けてきた。ほとんどが、1節と7節に集中して基本を抑えてきた。今日から本論であり、伝えたいことの結論である。その解説が18節以下に入る。だから、ローマの信徒への手紙には何が書いてあるかと聞かれたかと言われれば、1章16節を示せば良い。17節は、それを補完するものである。

福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ、と語りたかったのである。だから、今日の説教はこれで終わりと言ってもよいのである。
18節からは、なぜ福音が信じる者すべてに救いをもたらす神の力となるのかについて、えいえいと語られているのである。その内容について詳細に解説をして、理解をもとめて、だから「神の力となるのだ」と語り続けているのである。
パウロが語りたかった中身は、1章16節に集約されており、あとはその解説である。その一番のところが今日のテキストなので、その先の部分をすべて解説しなければいけなくなる。
先ほど、宗教改革500年の記念の年であるという祈りをしたが、ルターが論述するときに、福音というのはここではなかったと語るのは、このローマの信徒への手紙から学んでいった中身なのである。
汝ら悔改めよというときは、キリスト者の全生涯が悔い改めであることをお求めになられたのだ。それは、まさにローマの信徒への手紙に示された福音のことである。
 私たちが地上を行きている時、原点に帰ろうとするとき、「福音は信じるものすべての神の力である」ここに戻る。大事な事柄は、神の力に何故になりうるのかということを知っておいてほしいのである。救いをもたらす神の力だというのである。救いとは何か。その救いを与える神の力だということは、どこに明らかにされているか。それは、福音にあるという。ところが、このローマの信徒への手紙には、わたしは福音を恥としないと言っているのである。神の力をなぜ恥とするのか。信じる者すべてにとっての力、なぜ、それを恥とするという話になるのか。なぜか。パウロの述べ伝えている福音の中身が「なんだい、ありゃ」と言われるような中身だったからである。すでに触れられている中身、1章2~4節の部分は、肝心要のところは、福音の解説だったのである。

ローマ1:2~4

肉よれば、ダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって。間が抜けている。十字架によって殺されたことである。ユダヤ人に宛てた手紙だったからである。そのことについて、直接聞きたいと言っていた中身だったからである。十字架の部分を挨拶の部分ではあえて抜いてあるのである。
それで、誰もが知っていた中身であったゆえに、あえて「福音を恥としない」と言ったのである。十字架は、弱さの象徴だからである。それにもかかわらず、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だと語るのである。そして、弱さと力を語るときに、福音を恥としないというのである。
 パウロが述べ伝えようとしている福音をストレートに書いているところがある。読んでいる相手によって書き方を変えているので、コリントでは十字架とはっきり書かれている。論述的にしっかりしているのは、ローマ。しかし、言葉としてわかりやすいのは、コリントである。

コリント一 1:18

コリントの信徒への手紙とローマの信徒への手紙は、よんでいる相手が違う。ローマの信徒への手紙は、ユダヤ人に宛てられたものである。それで、十字架についてはあまり触れていない。しかし、わたしは福音を恥としない、という点では、コリントの人たちに宛てた手紙と同じなのである。では、救いにあずかるという「救い」とは何なのか。そして、十字架とは何だったのか。そしてそれは、教会の周りにいる人達と私たちとの決定的な差にもなってしまうのである。来週から耳を傾ける解説の最初を見てみよう。

ローマ1:18~23
ローマ2:1~16

なにをパウロは言おうとしているのか。何を前提としているのか。それはユダヤ人が知っていることであった。それは神様が私たちを裁かれるという事実である。この世界をつくり、わたしたちに命をお与えになった神様が、しっかりと見ていて、正しいものと正しくないものについて、どうでもいいと言っているのではない。人を殺す者、詐欺を行うものに対して、どうぞご自由に、あなたを大好きよと、おっしゃるはずがない。神などこの世に言いながら人を騙して、殺し、侮蔑するもの、自分によって都合のよいものだけを集めてくるものに、同じように扱ってくださるはずがない。だから、不正をみたときにそれはいけないと思うし、自分にその思いが生まれたときには自制する。律法がなくとも、神の目があることを私たちは知っている。この世界は神の手の中にある。自然現象に手を合わせる人たちを知っているし、それを軽蔑することはない。自然の中で、神について明らかにしていることを聞いているからである。目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。

 パウロが盛んに語っている大前提は、かみさまが私たちのすべてを見ておられるということである。私たちのことをしっかり裁かれると言っているのである。神は、わたしたちのことをみて、いまは忍耐しているが、終わりの時にすべてのものを裁く。復讐するはわれにあり。神様はそうおっしゃった。苦しみ、悲しみをもって、わたしのことばに従って生きよ。復讐は私のすることである。わたしたちは知っていなければならない。神様は正しくさばいてくださる。ならば、なぜ信じるものすべてに救いをもたらす神の力が、福音にあるのであろうか。それについては、マルコによる福音書を見てみたい。主の十字架の場面である。

マルコ15:21~39

十字架は、神の子が死んだ場所である。人々が侮って、イエスについて言葉を投げかけていた場所である。他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。そして主が発した「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と言った。私たちの主が殺されていく。しかも、神から見捨てられていく。そのすべてを見ていた百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 十字架上で、神の子が叫んで死んでいく。それをパウロは恥としないというのである。救われるものには神の力だ、と語るのである。なぜ、救いをもたらす神の力なのか。パウロがローマの信徒への手紙で語り続けているのは、十字架上で神から見捨てられて死ななければならなかったのは、本当は私たちだったというのである。主が、身代わりとして、贖いとして死んでくださった。だから、救いなのである。本当に叫ばなければならなかったのは、見捨てられなければならなかったのは、イエス様ではなく、わたしたちだった。
 だからもはや、この業を信じるものには、もはや責任をとらせない。それを約束してくださったという福音なのである。神の子が殺されていった場所である。しかし、その手続を経て私の罪を赦すと言ってくださった。その神に寄って、本来わたしたちが見捨てられなければならないところを、御子が代わりに引き受けてくださった。もはや、主の十字架と復活を信じるもの、神の愛を信じるものにとっては、あなたを裁くことはない。
 神の力によって商売が儲かることが神の力なのではない。病を治してくださるのが神の力ではない。わたしたちが、神様から裁かれることがないということが、神の力なのである。

ヨハネの黙示録 21:1~8

 7節にある「わたしはその者の髪になり、その者は私の子となる」これが、神の力である。
パウロは語るのである。あなたは、神の子となれる、と。
(2017年10月1日主日礼拝 釜土達雄牧師)

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