マリアの讃歌(ルカによる福音書 1章46節~56節)

 マグニフィカと呼ばれるマリアの賛歌である。多くの歌になっている。この歌詞を口ずさんでいる。多くの人に愛されている詩である。多くの人が、この詩に励まされてきた。マリアがどのような女性であるか、そのことは問うてはいない。どのような家庭環境にあったのか、聖書は語らない。しかし、貧しい大工、ヨセフのところに嫁ぐということだけは事実である。貴族、王族のたぐいであったのではない。そこに人々の思いは集中する。それは、いまからいつの世の人も、私を幸いな者だと言うでしょう。それは、力ある方が私に偉大なことをされたからだ、と。

 神様が、力のないもの、弱いものに対して、目をそむけたり、忘れ去ったりしない。なぜなら、この私に神様が目をとめてくださったから。私の努力、力ではない。神様が私に目を留めてくださったから、今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう、というのである。人が評価したからではない。神様が私に目を留めてくださったから。私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
 マリアの賛歌は、多くの人々に愛される力がある。マリアの信仰とともに、エリザベトのマリアへの賛辞と共に忘れてはならない。わたしたちは、このマリアの信仰をしっかりと受け取って忘れてはならない。その信仰とは、「身分の低い、このはしためにも、この主のはしためにも、目を留めて下さった」というところが基本である。クリスマス物語は、人の努力によるのではないということを知っていなければいけない。そんなことは、聖書のどこにも書いていない。クリスマス物語のマリアの物語は、天使ガブリエルがいきなりやってくるところから始まる。

ルカ 1:26~28

 マリアが、何かをしていたのではない。表現が適切ではないかもしれないが、祈っていたわけでもない。神様を賛美していたときに、この出来事があったのでもない。普通の日常生活をしていたところに、いきなり天使ガブリエルがやってきて「おめでとう、恵まれた方」と言われるのである。マリアは何もしていないのである。どんな人であったか、一切書いていない。どんな人物であったかも、神様の前に正しい人であったかどうかも、非の打ち所があったかなかったかも書いていない。マリアは何を言われているのか分からず、考え込んだと書かれている。神様から恵みをいただいた。恵まれた方とはどういうことか。一切解説なしに、一方的に語られたのである。その子は偉大な方となる。壮大な歴史の中の重大な役割を持つのだ、と言われる。それに対して「どうしてそのようなことがありえましょうか」と問う。それに対して「神にできないことは何一つない」とガブリエルが言う。それに対してマリアは「お言葉どおりこの身になりますように」と言う。ここが、唯一、マリアの信仰として表された場面である。
 多くの人が神の全能の前に、「お言葉どおりこの身になりますように」という言葉に、自分の心を重ねていく。神様によって造られた。つくられた一人の人間にすぎない。この地上に遣わされて、主に守られてこの地上を生きている人間にすぎない。神の業が、この私をとおして成されるならば、主のしもべである私の大事な役割である。忠実に行います。わたしは主のはしためですから、お言葉どおりこの身になりますように。マリアの信仰とは、このような信仰である。

ルカ1:39~44

マリアという人物の素晴らしさを言っているのではない。神様からあたえられた役割に対して、すばらしいと言っているのである。人物に対する評価ではなく、役割に対する評価なのである。「あなたは、女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」マリアに対して賛辞の声を上げているのである。あたえられた役割が素敵だと言っているのである。そして、そのあたえられた役割に相応しい方があなただ、と言っているのである。それが45節である。「主のおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そのマリアの信仰とは、難しく複雑なものではない。単純明快である。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」マリアの信仰は、単純素朴なのである。マリアの信仰は、神様に対する単純な信頼である。マリアの信仰は、こんなにも素朴なのである。マリアの賛歌は、マニフィカーと呼ばれるこの賛歌は、この単純素朴な信仰に裏付けられた歌なのである。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」

わたしが何かをしたのではない。神様が一方的に目を留めて下さった。力ある方が私に偉大なことをなさいましたから。
これを間違えてはいけない。「力ある方が私に偉大なことをさせてくださいましたから」と言う人がいる。これは、違う。マリアはそんなことは言っていない。わたしがこんな偉大なことをした。そういう傲慢な心を打ち砕く。力ある方が、私をとおして、神様がしたのである。力ある方が、なさった。マリアががんばって子どもを産んで育てた、ということではない。私を使ってくださったこと、用いて下さったことを感謝している。やったことがらを凄いでしょう、と言っていない。どこにも、これからイエスを産むとは言っていない。偉大なことをされた。偉大なこととは何か。イエス様をお腹のなかで育てる責任をあたえられたということである。ほっといてもお腹は大きくなっていく。時が来たら、出てくる。自分がやったのではない。神様がしてくださっている。用いられているに過ぎない。男の私には分からないが、幼稚園のお母さん方は、みんな生んだ経験のある人なので、これは不思議なことである。あの雰囲気は独特である。自分の力ではなく、あたえられている役割に対する喜びや誇りが満ちている。この言葉は、本当に多くの女性達が愛する言葉である。それと同じことが、「代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

ルカ1:55

あたえられた役割をはたすのは、私個人のことではない。イスラエルに対して約束し続けてこられたことを私を通して実現しようとしている。そのことに対する感謝が、マリアの賛歌なのである。神の約束は、必ず実現する。わたしは主のはしため。お言葉どおり、この身になりますように。こんな一連のマリアの信仰がここに集中している。だから、マニフィカートは、多くの人に愛される。
クリスマスは、このような信仰のところにやってきた。クリスマスの喜びは、単純に一人の男の子が生まれたことに留まらない。クリスマスというのは、マリアが素朴な信仰の中であたえられた役割を果たすことに留まらない、大いなる奇跡となっていることを忘れてはならない。マリアが受け止めたことは、神ご自身であられる方が、神として肉体を宿られるということである。神が肉をとるということである。一人の男の子をわたしたちの神と仰ぐ。まことの人であり、まことの神として、このかたを仰ぐ。マリアという人のお腹の中に入った。その男の子は、単なる一人の人間ではなく、神なのである。高校の歴史の教科書で、このニケーアの宗教会議の最も重要なポイントであったことを知るであろう。この赤ちゃんは、本当の人であり、人でしか無いというアリウス派に対して、イエスがまことの人であり、神であるという、アタナシウス派との戦いであった。神の子、神ご自身であられた。人を神とするのか、と問う人がいたのである。ネストリウス派のキリスト教として景教と呼ばれた。新羅の民間信仰と合わさり、日本の神道のもととなったと言われる。神輿は、十戒を入れた神の箱と同じような大きさだと言われている。
弱く小さなマリアが育てることを命じられたのは、全能の神の子、神ご自身であった。こんな小さなマリアに、この信仰しか持たないマリアと行ってもいい。そのマリアに自分の命を預けた。おっぱいをあげることも、おむつを交換することも、この地上を生きる生き方を教えることも、このマリアを母として受け入れてこの地上に来ることを決断されたのである。人間の手に、神様はその生命のすべてをゆだねたのである。今だったら、交通事故に遭わないように気をつけなければという話になるが、二、三人子どもを産んだ女性ならともかく、マリアにすべてのリスクをゆだねたのである。あなたに任すと言われた。神にできないことはない、と言われて、お言葉どおりこの身になりますように、と言ったマリアに、すべてを委ねたのである。マリアは、この私に目を留めて下さったということだけを喜びにして、神様が偉大なことをしようとされていることを、喜んでいる。自分を誇るのではなく、自分を通して何かをしようとしていることを喜んでいる。
わたしはあなたに私の命の全てを委ねる、とおっしゃってくださる。これと同じ信仰を生きることが許されている。神様からあたえられている信頼とは、こんなにも大きい。求められているものとは、喜んでいるのは、単純素朴な信仰である。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じている。そんな単純な信仰なら、大丈夫であろう。複雑な聖書の話や神学の話は無理でも、全能の神様がそうなる、と言えばそうなるであろう。私が、あなたを復活させるよ、と言うのなら、そうなるであろう。病を得たのであれば、その病と共に生きよと言われるなら、そうなるであろう。生きているときも、死ぬときも、死んでいるときも、復活のときも共にいてくださる。その神様の約束を信じているなら、この地上をもっと呑気に、生きることができるのではないだろうか。
だから、みんなマリアのこの賛歌が大好き。
「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」
マリアの信仰を持って、地上を歩んでいきたいと心から願う。
(2011年11月20日 釜土達雄牧師)

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