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自己アイデンティティを、探しながら固定化しない

 選択肢が増えて、手に入る情報も増えて、自分で生き方を選択していかなければいけない時代になった、と言われている。自分が好きなものは何なのか、やりたいことは何なのか、ということを、正面から問われる時代。

 その象徴的なものの一つが就活だと思っていて、新卒の就活ではたぶん、自己アイデンティティと、それを会社でどう活かすのか、が問われる。

 このときに初めて、自分は何が好きで、どう生きていきたいのかが問われる、という人も多くいると思う。ぼくもそうだった。けれど、就活の中で自分にアイデンティティを問うことは、けっこう危うい。
 業界や会社名や職種と、アイデンティティは、本来全くの別物なのに、それらを選ぶ際に自分にアイデンティティを問うと、両者がごっちゃになることがある。
 加えて、エントリーシートや面接で会社ウケするように自分を説明すると、言葉が先走って、本来とは別の形の自分を、それが自分だと思い込むようになることがある。

 ただ、自分の好きなことややりたいことを考えることには意味があって、それを問わない限りは好きなことに近づけない、とも思う。就活の場であっても、しっかりとアイデンティティと向き合って、そのうえで就活をしたら、とても上手くいくんだと思う(新卒のとき当然ぼくは失敗したのだけれど)。

 少し遠回りしたけれど、じゃあ、その、自己アイデンティティとはなんなのか? ということについて、考えてみた。

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 ぼくは大学のとき、自分のアイデンティティはなんなのか、ということを、けっこう考えていた。たぶんそれは、中学のときにクラスで浮いて、クラスの中で「ほとんど価値のない人」になったことと関係がある。自己アイデンティティ、確固たる自己、独特の価値のある自分、が欲しかった。

 それで、本を読んでみたり、サークルのフットサルやダンスを頑張ってみたり、イギリスに行ったりした。自分はこれだ、というものを探して。

 そのまま就活に突入したのだけれど、今思うと、就活が成功しなくてよかったと思う。就活のとき、ぼくは、自分のアイデンティティについて深く考えが至っていないまま、会社にウケそうなそれっぽいこと(まあウケなかったわけだけれど)を言って、それがアイデンティティだと思い込みそうになっていた。それで成功していたら、ぼくのアイデンティティは、会社にいいように思われるように作った言葉、イコール仕事になっていた可能性がある。自分の所属している会社や、そこでの仕事を自己アイデンティティと同義として誇る人間に(そうなっていたら、ぼくは、それを笠に着た、鼻持ちならないやつになっていたと思う)。
 もしくは、就活で自己アイデンティティと仕事を切り分けて考えることができていて、それで就職できていたら、そこで見出した自己アイデンティティを固定化していたかもしれない(それは、悪いことではないと思う)。

 幸いにして(?)就活に失敗したぼくは、また自分のやりたいこと、好きなことを考えることになった。そのまま、いくつかの職を経て、間に大学院を挟んだりして、今に至る。

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 今、こうやって自己アイデンティティについて考えようと思ったきっかけは、文化人類学者の今福龍太先生のインタビュー冊子「La magia del sombrero」(取材・編集・制作:髙橋由佳さん)を読んだことで、そこには、ざっくりと言ってしまうと、自己アイデンティティが固定化することで、発想が窮屈になってしまうこと、が書かれていた。

 文化人類学者は、少数民族の文化を研究しに、彼らと生活を共にしに行く。でも、当然これまでにもその少数民族の文化の研究は行われていて、文化人類学者と少数民族が、文化人類学者と少数民族という関係のままだと、これまでの研究をなぞることにしかならない。
 今福先生はそれが嫌で、文化人類学者=観察者という立場を捨てて、メキシコのインディオと一緒に踊って、お祭りに参加して、「そういう風にして自分のアイデンティティっていうもの自体をずらしたり棚上げしたり」した。
 そういう中で、さらに「日本人」についての概念が自分と全く違う人たちと触れ合う中で、日本という固定的な概念が解体されて、多様化されていって、「アイデンティティ」について考えるようになる。メキシコの文化は、先住民と、彼らを征服して入ってきたスペイン人の混血によって生まれた文化で、文化の中に様々なルーツが混在しているから、「アイデンティティ、自己同一性というものを根拠にしてものを考えたり組み立てたりしていくような人間の一つの思考の道筋自体が、ある意味で一方的な考え方に過ぎない」と考えるようになった、と。

 この、自己アイデンティティに縛られない考え方、「自分を何者でもない者、あるいは何者でもあり得るような存在にしていく」という考え方には、とても憧れた。

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 自分のアイデンティティを固定化してしまえば、たぶん、生きやすい。もうそれ以上、考えなくていいから。あとはそれに向かって進むだけだから。

 でもぼくは、自分のアイデンティティなんて見つけられていなくて、誰かと話すときには、当座のアイデンティティで話している。それならもう、「何者でもない者、あるいは何者でもあり得るような存在」になりたい。

 それはきっと、何も考えずにただ生きていくだけということではなくて、自分のアイデンティティについて考えて、問い続けて、そうやって客観視することで、そうあれるんだと思う。そうやって、固定化したアイデンティティの上でではなくて、何物でもあり得るような存在になれたら。

 概念的な話になってしまったので、最後にすごく身近で具体的な話を。

 大人になってから、あるいは高齢になってから、新しい何かを始める人たちに憧れている。

 以前、50代になってから、マイケル・ジャクソンに憧れてストリートダンスを始めた女性に会った。彼女の息子さんもストリートダンスをしているという。彼女はすごく上手くて、それ以上に、格好よかった。
 出会ってからしばらくして、彼女が還暦を迎えたとき、彼女の友達が企画した還暦を祝うダンスイベントで、赤い革のコートを着て踊っていた。敬老の日のCMにも出ていた。

 趣味や、自分が自信を持てるものに、人は、一つの自己アイデンティティを見出すと思う。自分は、これが得意な人だ、と。

 だとすると、彼女はきっと、50代になってから、アイデンティティが変わっている。それを恐れていない。

 自分が何をしたいのか、どうありたいのかを問い続けることで、アイデンティティは変わる。変わり得る。仮面を被るように。

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