見出し画像

感情的に対立するぼくらの社会

 10年と少し前、イギリスの田舎町に住んでいたとき、町を歩いていたら、道の反対側を歩いていた青年から、中指を立てられた。

 その町は、ロンドンから長距離バスで5時間ほど、新幹線のような都市間を結ぶ電車では2時間半ほどの場所にある、漁港だった。住んでいる人のほとんどは白人で、ぼくのようなアジア人は、圧倒的なマイノリティだった。

 狭くはない道の向こう側からだったけれど、中指を立てられて、訳のわからないことをまくしたてられて(それは、アジア人の喋り方をからかう、よくあるやり方だった)、ぼくは急に、その場所にいることが、その町にいることが、居心地が悪くなって、怖かった。イギリスにしては珍しく空気が乾燥して埃っぽい、夕日のさす夕方だった。

 そういう経験は一度ではなくて、町で向こう側から歩いてきた人から、すれ違いざまに侮蔑のこもった言葉でもない言葉をぶつけられたこともある。

 ぼくにそういう態度を向けてきた彼らに、もしもそうする理由を聞いたら、きっと、アジア人はこんな場所にまで移住してきて自分たちの仕事を奪うからだとか、もしかすると、劣ったやつらだからだ、とか言うかもしれない。

 でもそんなのは後から取って付けた論理で、先にあるのは、感情的な反発だ。違うものへの、嫌悪。

*     *     *

 感情を、論理的に正当化する。そういう経験は、恥ずかしいことだけれど、ぼくにもある。家族で食卓でテレビを見ていたとき、なにかの話題で両親と議論になった。ぼくは、どうしても反発してしまって、自分の意見に固執した。どうにかその意見を理論武装しようとした。でもそれは、論理的に考えてたどりついた意見を主張するのではなくて、感情的な意見ありきで、それを後付けの論理でコーティングしただけだった(そこには、明らかに親への甘えがあったのだけれど)。

 そんなのは、議論ではないし、論理的な対話ではない。

 議論とは、対話とは、相手に自分の意見を伝えて、相手の意見を理解して、意見をすり合わせるためのものだ。意見が、結論が、感情があって、それを理論でコーティングするのは、ただ相手を論破するためだけにやっていることであって、そこには理解なんてない。そんなものは、論理ではない。

 そこにあるのは、ただの、感情的な対立だ。

*     *     *

 ぼくは、物語に関わる仕事をしていて、物語は人の感情に訴えかけるものだと思っている。感情はすごく大事なものだと思っているし、感情があるから楽しく生きられると思っている。

 でも、その感情が対立を引き起こしてしまったときには、ものすごく厄介なことになる。

 感情的な対立は、折り合いがつかない。感情的に対立してしまったら、理解し合えることは、ない。

 最近、しきりに、物語の重要性が、つまり感情に訴えることの重要性が説かれている。会社は、自分たちの物語を打ち出して、製品ができるまでの物語を伝える。感情的な判断が、人々に期待される。

 世界が、感情化している。人々を、物語に、感情に、共感させる。『JOKER』は、分断した社会で割を食う人々の感情の爆発、奔流を描いた。『パラサイト』は、格差社会における分断から生まれた悲劇を。共感のカタルシス、その感情的な気持ちよさで、世界が回っている。そこには、対話がない。論理がない。伝え合えない。理解し合えない。その感情に共感できない人は、排除する。

 感情化した言葉は、論理ではない。「オルタナティブ・ファクト」。なんてトートロジックな言葉だろう。「もう一つの真実」。パラレルワールドもののファンタジーのタイトルとして一作書けそう。ファクトについての理解をすり合わせないと、それに対する対話は、議論は、発生しえない。オルタナティブ・ファクトというのは、対話を、はじめから諦めている言葉だ。論理的ではない、感情の言葉。共感できる人だけが集まる社会。対立は永遠に対話にならない。その言葉は、感情の言葉で、感情を正当化するための、似非論理。

 今、いろんなSNS上で、そういう似非論理的な言葉が飛び交っている。感情的な分断、対立。感情的な意見をコーティングするための、似非論理。それは、論理的に導かれた結論ではなくて、感情的な意見。感情的な意見を「正しい」と言おうとして、論理でコーティングする。

 感情は大事なものだ。けれど、感情に、「正しさ」なんてない。

 感情的な対立は、折り合うことがない。「だから」、論理があると思っている。感情を正当化するためにではなくて、感情から一歩引いてみるために、そして、違う感情を持つ相手と対話するために、論理的に、言葉を重ねる。

*     *     *

 対話によって理解を、意見をすり合わせるには、場合によっては自分が変わる必要がある。変わることについて、最後に少しだけ。

 小学校のころ、クラスメイトの一人が、猫を拾ってきた。その拾ってきた猫をどうするかについて、授業をつぶしてクラスで議論がなされた(このことに、すぐにしっかりと議論する時間を割いた小学校の先生は、素敵だと思う)。

「こうするべき」「ああするべき」といういくつかの意見が黒板に書かれて、自分が賛成の意見のところに、自分の名前が書かれたマグネットを張る形で、議論が行われた。ぼくは、議論が行われる中で何度も違う意見の言葉に納得して、マグネットを張る場所を変えた。それを見て、クラス中が、そして先生までもが、呆れた。

 確かに、意見を変える前の考えが浅かったぼくにも落ち度があったかもしれない。でも、論理的に納得したのなら、意見は、いくら変えてもいいんじゃないか、と思う。意見を変えてはいけないのなら、あの場で行われていたのは何だったんだろう。ころころ意見を変えてはいけない。間違ってはいけない。そうではなくて、意見を変えることができることを、認めてくれてもよかったんじゃないか。

読んでいただいてありがとうございます。書いた文章を、好きだと言ってもらえる、価値があると言ってもらえると、とてもうれしい。 スキもサポートも、日々を楽しむ活力にします!