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コミュニティの「際(きわ)」で

こちらの写真の男性。知らない人の方が多いかもしれません。
「誰だろう、この不思議な顔をしたおじいさんは」と思われたかも。

いつかブログを再開しよう。そして最初は、この人のことを書こう。
と、去年の末から心に決めていました。

市川雄一さん。
1990年代、日本の政治のど真ん中にいて、そのありようを変えた政治家です。
そのことを記憶している人は、政治好きな人ぐらいかもしれません。
去年12月8日に亡くなりました。
久々に昔の仲間たちと、お会いする約束をしていた前日のことでした。

その昔、大昔、ほんの駆け出しのころ、私は公明党の書記長だった市川さんの番記者をしていました。
圧倒的な思考力、構想力、実行力のある政治家でした。
本をめちゃくちゃ読む人で、記憶力が尋常でなく凄まじく、昔読んだ小説の一節がスラスラと出てくるような方でした。
新撰組の土方歳三の生涯を描いた司馬遼太郎の「燃えよ剣」のラスト一節を一言一句違わずに暗唱されたときのことは、今でも鮮明に覚えています。

土方歳三のように、リーダーの影ですべてを仕切る鋭い参謀役でした。
大きな目標とそこに至る戦略を明確に持ち、実現するための戦術として一番エネルギーの必要な正面突破も厭わなかった。
今では公明党が政権与党にいるのは当たり前ですが、そこに至るまでの長い道のりを陰に陽にリードしたのは間違いなく市川さんでした。
1990年、湾岸戦争の90億ドル支援に条件付きで賛成。
92年に成立した国連平和維持活動(PKO)協力法が法案になる過程で、「PKO五原則」を提示。
93年、歴史的な政権交代となった非自民・細川連立政権の誕生。
裏で気が遠くなるほど数多くの関係者と議論し、説得し、ときには凄んで反対論を封じ、大事を成し遂げた立役者の一人でした。
つまり、日本の政治の姿を変えた人だった。

頭が良くて怖くて容赦なくロジカルで、腹が据わっていない人たちからは、ものすごく嫌われていました。
7党1会派のモザイクで作られた細川・羽田連立政権、いわゆる「非自民」連立政権で、市川さんは当時新進党の小沢一郎幹事長とともに「一・一ライン」と恐れられていました。
ロジックで勝てない人たちが、市川さんたちに「強権政治」というレッテルを貼りました。
その後、一部の政権キーマンたちの詰めの甘い振る舞い(一言でいうと根回し不足)が原因で、連立政権は崩壊していきます。「最高権力の場にいる人たちは政策ではなく好き嫌いで自分の動く方向を決めるのか」と愕然としたものです。
「大嫌いな小沢・市川に偉そうにされるぐらいなら、宿敵・自民党と一緒になるさ」。政権を抜け、自民党と組んだ社会党の選択は、まだ若かった私の目に、そんな風に映りました。

94年の非自民連立政権の崩壊後、紆余曲折を経て、99年、公明党はついに自民党と連立を組み与党に復活します。
その4年後に市川さんは衆議院議員を引退。
それでも、圧倒的な知識と経験に裏打ちされた安全保障政策への知見を頼りにされ、公明党の特別顧問として最晩年まで党内外に発信を続けていました。

日本酒が大好きで、カラオケが大好きで。
懐に飛び込んで来た人たちには、優しかった。
今の日本の政治の姿をどう見ているのだろうか。変わる米国、中国、欧州の姿をどう見ているだろうか。
亡くなられてもう半年以上も経つけれど、あの鋭いお話がもう聞けないと思うと、やはり寂しい。



こんな凄い方と、近い距離感でお付き合いするというのが、記者という不思議な職業です。記者はあくまで「傍観者」。多くの人々の生活に影響しそうなニュースメーカーがいる組織・コミュニティを、転々とします。
奥深く入り込むけれど、「際(きわ)」で止まるのがプロ。それがなかなか難しいのです。

きょうは、ずっと書かなければと思って書けなかった私なりの追想録を、書かせてもらいました。タイトルと本文がピタッとはまらないけれど・・・いろいろな「きわ」を歩いてきた私が出会った多くの方々の中で、最も印象深かった方のお話でした。
ブログ再開のきっかけをもらったコルクラボに感謝。




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