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賢者のセックス / 終章 小さな光と三百万円 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

第75話 原稿用紙の衝撃

 これで僕とソラちゃんのセックスに関する全ての調査が終了ということになった。

 もちろん、僕とソラちゃんがセックスをしなくなったというわけではない。あの後も僕たちはセックスをしているし、ソラちゃんは時々オーガズムを経験出来るようになった。そしてソラちゃんと僕は射精が終わった後も繋がったまま、取り留めもない話をする。そんな時間が僕は大好きだ。きっとソラちゃんもそうだろう。

 六月に入ってからソラちゃんは毎晩、日付が変わるまでパソコンの前に座っている。小説の最後の仕上げをしているそうだ。ちなみに、文字数の規定は四〇〇字詰め原稿用紙で三〇〇枚から五〇〇枚なのだという。四〇〇字詰め原稿用紙なんて概念が今も存在していることに、僕は衝撃を受けた。しかもマイクロソフトが日本語版のワードに原稿用紙レイアウトを実装していると聞いて、僕はもう一度衝撃を受けた。

 そう言われて見てみると、たしかにレイアウトタブの中に「原稿用紙設定」というボタンがあるではないか。今まで一〇年以上もワードを使ってきたはずなのに、全く見えていなかった。僕にとってはこのボタンの存在こそが全日本ファンタジー大賞の最有力候補だ。いっそのこと、これをクリックした瞬間に時空が歪んでディスプレイから太宰治が出現する話を書いたら面白いんじゃないか。

 ソラちゃんの隣でビールを飲みながらそんなことを話していたら、ソラちゃんに指先で頬をはじかれた。

「あのね、全日本ファンタジー大賞じゃなくて、日本ファンタジー文学新人賞。君のは欽ちゃんの仮装大賞と混ざってるから」
「でもMITメディアラボの研究者でも欽ちゃんの仮装大賞の影響受けている人は多いって話、ツイッターで見たことあるよ」
「だから何なの? 仮装大賞で優勝したら小説家になれるの? あっち行ってて」

 そんなわけで、ソラちゃんの小説執筆プロジェクトはもうしばらく続くのだ。

 小説が書き上がったのは六月も半ばを過ぎた頃だった。その日は土曜日で、日が出ていたかと思えば小雨が降ってきて、また晴れてというような不思議な天気だった。僕はベランダに出した椅子に座って冷やした白ワインを飲みながら、すずかけの並木が風を受けてざわざわと波打つのを眺めていた。ビルばかりの港区はあまり好きではないけれど、ここからの景色は気に入っている。つまらない社会学概説の講義を聞き流しながら窓の外を眺めていた大学時代を思い出せるからだ。あの頃に戻りたいとは思わないけれど、ああいう不思議な時間は生活のどこかにあった方が良いのだろう。

「出来たよ。おいで」というソラちゃんの声が聞こえたので、僕はゆっくりと立ち上がって部屋の中に入った。部屋の中はエアコンが効いていて涼しかった。コンピューターデスクを見ると、二面ある大きなディスプレイの片方に書き終えられたばかりの小説が表示されていた。ソラちゃんはキッチンで紅茶を入れている。僕はデスクの前にあったウインザーチェアに座り、マウスホイールでざっとページを送った。ページを送りながら、僕は背中にかなりの汗をかいていたと思う。

 いつの間にかソラちゃんが僕の後ろに立っている。

「どうかな? これ」
「これ、小説なの?」
「たぶんね」
「小説って何でもありなんだね」

 次の瞬間、僕はソラちゃんに頬をつままれていた。結構痛い。

「おーや、この子はいつからこんなに生意気な口をきけるようになったんだい?」

 ソラちゃんが僕を睨んでいる。その口調と相まって、もはや完全にヘンゼルとグレーテルの魔女だ。でも、もう少し優しく頬をつままれていたら、何かが見えてしまったのかもしれない。

 僕は必死で弁解した。

「だって、僕はラノベしか読んだことないから……」

 ソラちゃんはようやく頬の肉を放してくれた。

「正直に答えて。これ、面白くないかな?」

 僕は返答に詰まった。だって、ソラちゃんが書いていたのは、小説というよりは実験の報告書みたいな文章だったからだ。しかもその中身は、僕の身体のどこをどう愛撫したら、何が見えるかという精密な記録だ。ほとんどそれだけだ。

第76話 二択で言えば、面白い

 こうして改めて文章になったものを読んでみると、ポルノ小説とは何なのかが逆説的にわかるような気がする。ソラちゃんの小説に足りないものが、ポルノ小説を成り立たせているものの全てなのだ。すなわち、NTRとか百合とか学校の中というような性行為の状況設定と、これでもかという喘ぎ声と、持って回った比喩表現と、いかにもポルノというセリフである。

 だが、今の僕に求められているのは、そんな分析ではないのだろう。

 しばらく考えてから、僕は尋ねた。

「よくわからないんだけど、あのさ、そもそもセックスをしてたら何か見えましたって話だけで、小説になるの?」
「島田荘司の『涙流れるままに』は、ヒロインが自慰をすると首なし男が歩いてるのが見える話だったよ」

 島田荘司という名前は知らないけれど、鬼畜もののエロゲーのシナリオライターでもそんなシチュエーションはなかなか思いつかないのではないか。ファンタジー小説おそるべし。

「……首なし男が見えるんだったらホラー的にドラマチックだけど、僕のは結局、地元の田んぼとか神社が見えただけだし」
「いいからとにかく最後まで読んで!」

 しょうがないので、僕は恥ずかしさに耐えながら続きを読んだ。

 最初は実験の報告みたいな話が続いていたソラちゃんの小説は、読み進めるうちに、何をしたら何が見えたかだけではなくて、その時その時でソラちゃんが何を考えていたかという話が付け加わるようになった。それは先に進めば進むほど増えていた。

 ソラちゃんは驚いたり悩んだり、喜んだり落ち込んだりしながら生きていた。

 強烈なリーダーシップで小説執筆プロジェクトを進めるバリキャリの魔女さまの中にも、僕と同じような弱さがあり、パートナーへの甘えがあった。

 ソラちゃんがこの小説で描きたかった主人公は、つまりそんな女性だった。

 何かに巻き込まれるのではなく、大金持ちの親や王様や神様の力で大活躍するのでもなく、自分で見つけた自分のやりたいことに自分の力で果敢に挑戦し、でも怖がったり強がったりと毎日のように変化しながら、時に心からリラックス出来る相手とセックスを楽しみ、時に支えられながら、一歩一歩前に進んでゆく、心身ともに健康な女性。

 僕にはそんな主人公が、この上なく魅力的に思えた。これまでに読んだどのラノベのヒロインよりも。

 一方、主人公に付き従っていた使い魔のような男の子は、僕には最後まで頼りなく感じられたけれど、それでも主人公が甘えたい時には何とか辛うじて甘えられる相手であったし、主人公の弱さを非難するでもなく、傍でぼーっとしながらいつまでも待っているような、気が置けない道連れとして描かれていた。

 一緒にナイトプールの写真を撮った話もあった。あの時、僕はソラちゃんとキスしたいと思っていたけれど、この小説を読むと実はソラちゃんも同じことを考えていたらしい。

 やっぱりキスしておけばよかった。

 ソラちゃんの小説は、僕たちが初めてコンドームを付けずにセックスしたシーンで終わっていた。僕とソラちゃんは秋の田んぼの上で重なりあい、溶けあって。

 そしてついに賢者は現れなくなった。賢者は僕たちのベッドから去ったのだ。

「どう?」
「なるほどね。賢者タイムの話をこうやって使ったんだ」
「大磯で君が話してたのを思い出したんだよ」
「そうだね、これはたしかに小説と言えるかもしれない、かな……?」
「面白い? 面白くない?」
「二択で言えば、面白い」
「何なのそれ。含みのある言い方だなあ」
「だってこれ、ほとんど僕とソラちゃんのセックスのやり方の暴露だから。かなり恥ずかしいよ」
「我慢。諫山創が「社会に知られたら生きていけないような性癖とかがあれば、それこそを描くべきだと思います!」って言ってたよ」

 諫山創って『進撃の巨人』の人だよな。ソラちゃん、「ソードアート・オンライン」もこっそり読んでたし、意外に守備範囲広い。

「でも、うん。僕は感動した。面白い小説だと思う」
「ありがとう」

 ソラちゃんの両手が僕の頭を挟んで、ぐいっと自分の方に向けた。顎クイよりもかなり力づくに振ったムーブである。それからすぐにソラちゃんの舌が僕の口の中に入ってきた。

 やっぱり駅が見えた。ソラちゃんが小説を書き終えることは、僕の見る風景の終わりではなかったわけだ。僕たちはまだ、あの街が見ている夢の中にいる。上等だ。

 僕たちの夢の物語は続くのだ。これからも。

第77話 大賢人と童貞

「ところでこれ、タイトルはどうするの?」
「まだ決めてない。何か良いのあるかな?」
「中学の後輩の男子を呼び出してセックスしていたら何かが見えると言い出したので、一緒に調べてみた」
「却下。それ、ホラー系のアダルトラノベになっちゃうから。もっとシンプルで格調高いのが良い」
「賢者タイムから始まるほのぼの夫婦生活:アラサーバリキャリ魔女は年下の使い魔と絶賛妊活中です」
「却っ下!」

 頭を軽くはたかれた。でも僕がファンタジー小説のタイトルと言われて思いつくのは、こんなのばっかりなんだよ。ああっ、ソラちゃんの目が笑っていない。誰か助けて。

「それのどこがシンプルで格調高いの? どこまでアダルトラノベ脳なのよ君は。あと、アラサーバリキャリ魔女って誰のことかなあ?」「ええっと、すいません、失言でした。でも、賢者ってあたりはガンダルフっぽくないですか?」
「ふざけてんじゃないの! ……でもまあ、賢者ってのはありかもね。賢者。いい響き」
「じゃあ、思いっきりシンプルに『賢者のセックス』」

 言いながら思わず笑ってしまった。

 ソラちゃんも笑っている。

「怪しいスピリチュアル系の自己啓発書みたい」
「でも、賢者ってセックスするのかな」
「『ゲド戦記』のゲドは大賢人を引退した後に童貞を捨てるよ」
「えっ? 『ゲド戦記』ってジブリの映画になったやつ? そんなシーンあったっけ」
「あれは『ゲド戦記』の三巻の設定を使って宮崎吾朗が違う話を作った映画だけどね。四巻で中年になって魔力を失って羊飼いになったゲドが、二巻のヒロインと初めてセックスするシーンがあるんだよ。二巻のヒロインのテナーもアチュアンの墓所の大巫女だった人。でも四巻ではただの未亡人の農婦」

 さすがはソラちゃん。スラスラとこういう知識が出てくる。

「そうかあ。大賢人でもセックスしちゃうんだ。賢者タイムって概念が問い直されてるね」
「ちなみに大賢人時代のゲドが使っていたのは、男にしか使えない魔法だったんだよ。とても強力だけど、使えば使うほど世界の調和が崩れて、生命の循環が壊れる魔法。ゲドは愛する女性とセックスすることでそれを手放したの」

 僕には大賢人の気持ちがよくわかった。愛する誰かとセックスが出来ること以上に大切なものは、僕の知る限りではこの世界に存在しない。

「でもさ」

 ソラちゃんはそう言いながら僕の左肩に頭を置いた。変形の肩ズンだ。いい匂いがする。空の青さと森の緑を注意深く混ぜ合わせたような匂い。ソラちゃんの新しい香水の匂い。

「セックスって、本当にいかがわしいものなのかな。AVみたいなセックスはたしかにいかがわしいんだけど、ああいうのは……」

 ソラちゃんの言いたいことはわかった。エロゲーやアダルト系ラノベやAVを使って射精した後に必ずやってきていた賢者タイムは、ソラちゃんとのセックスではもう訪れない。あれはきっと偽物の賢者だったのだ。

「リクとセックスしてると、何だろうな、とっても大事なことを思い出す気がする。いや、思い出すんじゃなくて、本当はこれが一番大事なんだよってことがさ、リクと私の間で生まれてるのを感じる、みたいな」
「うん。わかるよ」
「だよね」

 そのまま僕たちはベッドルームに行って、ソラちゃんの指摘が正しいかどうかを実験で確かめた。

 結果も簡潔に記しておこう。

 ソラちゃんは正しかった。

最終話 次の、誰かに。

 結局、小説のタイトルは『賢者のセックス』になってしまった。

 たしかにシンプルではあるけれど、格調がどの程度まで高いのか僕にはわからない。内容だって、結局はセックスそのものの話なのだ。でもソラちゃんは「山崎ナオコーラは『人のセックスを笑うな』で文藝賞を取ってるし、佐藤賢一の『王妃の離婚』は直木賞を取ったけど、あれも最初から最後までセックスの話だったから」と涼しい顔だ。

 小説はプリントアウトされて端を金属クリップで束ねられた後、大きな茶封筒にそっとしまわれた。それからソラちゃんと僕は一緒に郵便局まで歩いていって、レターパックで小説を発送した。出版社があるのは新宿区矢来町というところで、神楽坂の上の方らしい。ちなみに僕は白銀公園までしか行ったことがない。縁起が悪いだろうか。

 郵便局の自動ドアが閉まった時、僕の背中のすぐ後ろからソラちゃんの声が聞こえた。

「あの小説を書けたのは、君が最後まで一緒にきてくれたからだよ。ありがとう。リクがいてくれたことが本当の奇跡だった」

 その時の僕は、ほんの少しだけ泣いていたかもしれない。ソラちゃんが追いかけ続けたソラちゃんだけの星は今、彼女の両手の中で光っているはずだ。どんなに小さな光であっても、それはこの世界が僕たちに届けてくれた大いなる魔法から発した光だ。

 でも、あの小説はファンタジー小説であると認めてもらえるのだろうか。ソラちゃんが手にした小さな光は誰かに届くのだろうか。何故、僕がセックスの最中に様々な風景の幻を見たのか。その理由は最後まで謎で終わるのだけれど。

 区役所に向かう途中でそんな話をすると、ソラちゃんはしょうがないなあという表情で笑った。

「あのね、こういうのは全部説明したらSFになっちゃうの。科学で説明したらSF。説明しないまま、これは不思議だねで終わるのがファンタジー。憶えといてね。不思議は不思議のままで良いんだよ。不思議なお話に出会って、何かを考えて、何かが変わる。ほんの少しでも学ぶ。成長する。世界が違って見えるようになる。一歩でも半歩でも先に進める。そのための小さな不思議と勇気の元が入った小さな箱。それがファンタジーなのかなって、今は考えてる。私はそんな箱を幾つも幾つも開きながら生きてきたんだよ。だから……」

 ソラちゃんはその先を口にしなかったけれど、僕にはソラちゃんの声が聞こえた。

 だから、今度こそ、私のファンタジーを、次の誰かに。

「……なるほど。それなら、リングに上がる前に失格というのは無さそうだね」
「おう、目指せ三〇〇万円だよ。当たったら山分けしようぜ」
「ソラちゃんはそれ、何に使うの?」
「私? そうだなあ。やっぱりもう一度イギリスに行っておきたい」
「イギリス?」
「うん。ドーバーからこう、レンタカーを借りて時計周りでブリテン島を一周しながら、ローズマリー・サトクリフの小説の聖地巡礼ね。ドーバーは『ともしびをかかげて』で出てくるし、リッチバラ城は『銀の枝』、ワイト島は『夜明けの風』。『剣の歌』と『シールド・リング』は湖水地方で、『第九軍団のワシ』はハドリアヌスの長城! アフィントンの白馬にも寄らないとね。『ケルトの白馬』のラストシーンは幻想的だったし、『落日の剣』でアルトスがブリテン王になるシーンでそこがまた使われてて、んもう、サトクリフさまあって」

 ソラちゃんが何の話をしているのか、僕には全くわからない。きっとどれも外国のファンタジー小説なんだろう。でも、そうやって夢を語るソラちゃんを見ているのが、僕は大好きだ。だから、『賢者のセックス』が日本ファンタジー選手権でどうなろうと、いつかソラちゃんと一緒にイギリスに行こうと思う。必ず。

 ソラちゃんは最後に左手で僕の右手をキュッと握って言った。

「その時はリクが運転してね。私、免許持ってないから」

 もちろんです。どこまでもお供いたします。僕の魔女さま。愛してます。心から。生まれてきて良かった。ソラちゃんに出会えて良かった。そんなような言葉を幾つも幾つも心の中でくるくると回しながら、僕はソラちゃんの手を握り返した。真新しい指輪が僕の手のひらに触れる。この指輪は世界を支配しない。ただ、僕の心と体と、そして僕たちの過去と未来に繋がっている。この世の始まりへ。そして、この世が終わる瞬間までも。

 それで充分だ。

「ところで、結果はいつ分かるの?」
「三〇〇万円の?」
「……小説の」 

 ソラちゃん、現金すぎるよ。

「十一月。毎年十一月発売の『小説未来』で結果発表。大賞を取ると作品の最初の辺りは一緒に掲載されるんだよ」
「は? え、ちょっと待って。待って待って」
「ん? 何? どうかした?」
「あの小説の最初の辺りって、僕の身体のどこをどうしたら何が見えるかの話しか書いてなかったことないですか?」
「あら、言われてみればそうですね」
「しかもリクって僕の本名のままでセリフ書いてて……最後に一括変換し忘れてた気がしてきた。名前変えた?」
「さあて、どうだっけかなあ」

 僕の大好きな魔女が隣で笑っている。僕は彼女の夢が叶うことを望んではいるけれど、だがしかし。こんな時、賢者はどうするべきだろうか。真の賢者なら。

(完)


出典

「アジアのこの街で」作詞/紅龍 作曲/猪野陽子 (一九九四 ソニー・ミュージック)

酒見賢一『後宮小説』新潮文庫 一九九三

アンリ・ボスコ作 天沢退二郎訳『犬のバルボッシュ』福音館文庫 二〇一三

「『働くおっぱい』「7年間AV女優をやっていて、最もヒットした作品」/紗倉まな」

「諫山創先生、連載までの軌跡&キャラクター術」

「山崎晴太郎の『文化百貨店』 浦沢直樹VOL2」 

本文中に引用した聖書の文章は標準英語訳聖書および、それをもとに作者が登場人物の言葉遣いと思想に合わせて日本語訳したものである。

https://www.bible.com/bible/59/1CO.13.ESV


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