見える

透明は見えないのに見えると思うことが日常においてままある。小学生の時に「イカは透明なのになんで見えるし食べられるのだろう」と思ったことがあるが、それとこれとは全く別の話である。

例えば匂いについてだ。僕は非常に匂いが好きだということは周りのも言っているし、自分でも頻繁にそう思う。理由について酒の席で散々語ってきたが最近は「形がないのに見える」からではないかとよく思う。雨の日の空気も。香水も。隣の家の夕食とか。そして見えないのに見えるからこそ鮮明に記憶に残るものだ。

今日、暑いから半袖のワンピースをタンスから出したら以前に付き合ってた人の匂いがしてちょっとうれしくなったけど、悲しいくらい好きだったあの匂いが全く良い匂いに感じられなくなっていたという話を聞いた。自分も誰かに同じように感じられていると思うと悲しくなったし、もしかしたら今大好きな匂いもいつかは好きじゃなくなってしまうと考えると、なんだか喪失感のようなものまで感じた。まだ失ってないのに。

今見ている「赤」がいつかは別の「赤」に見えるようになるかもしれないし、今聞いてるスーパーカーのcream sodaは別の聞こえ方(見え方)をするようになるかもしれないのだと思うと恐怖すら覚える。どのように変わるのかどうかは検討もつかない(もっと好きになるかもしれない)が今、「見える」ことを大事にして生きていていたいな、なんて考えてしまう。

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