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ミスチルについて語ってみる〜光の射す方へ編

ミスチルファン仲間の友人が、「光の射す方へ」について熱く語っていました:

そしたら2日後、別の友人がアンサー記事を返してるじゃないですか:

そんなやり取りを見てたら、ミスチルファンの血が騒いでしまいました。

ということで、私も語らせていただきます、「光の射す方へ」。

「光の射す方へ」向かうミスチル

ミスチルって、「光が射す」手前にいたり、「光を待ち望んで」いたりする曲が結構多いんですよね。

陽のあたる坂道をのぼるその前に またどこかで会えたらいいな
(Innocent World)

そして今 音も立てず忍び寄る この別れの予感を
信じたくなくて 光を探している
(未来)

夢はなくとも 希望はなくとも
目の前の遥かな道を
やがて何処かで 光は射すだろう
(ALIVE)

もう十分光に照らされてるとか、逆に光は存在しないとかではなくて、「光を探している」「光は射すだろう」。

で、そんな「光」を探し求める曲たちの中でも一際エネルギッシュに暴れているのが、本日の主役「光の射す方へ」。1999年の作品です。

感情を爆発させた「光の射す方へ」

ミュージックビデオの6:01あたりで、体を揺らして顔を歪ませながら「光の射す方へ」と絞り出す桜井さんの表情をぜひ見ていただきたいのですが、なんかもう、「光に飢えている」と表現した方が近い、でも必死で「光の射す方へ」向かおうとしている、そんなギラギラ感が溢れてる。

これと対照的なのが、先にも登場した「ALIVE」。

同じ「光が射して欲しい」系の曲でありながら、言葉使い、曲調、ミュージックビデオの表情、何もかも真逆な作品です。

冒頭も、同じ高速道路の場面でありながら、全く違う雰囲気を漂わせています:

この感情はなんだろう 無性に腹立つんだよ
自分を押し殺したはずなのに
馬鹿げた仕事を終え 環状線で家路を辿る車の中で

1997年の「ALIVE」では「自分を押し殺し」ていたはずのミスチルは、2年後の「光の射す方へ」では怒りをぶちまけます

「ポンコツ」「小学校時代に帰りたい」「女の笑顔が下品で酔いばかり回った」「もっとこの僕を愛して欲しいんだ」

何かが吹っ切れたように感情を発散させ、生々しくて鋭い言葉を、弾けるような音にのせて世に放ちます。

そのエネルギーというか、疾走感みたいなものが本当に格好いい。

そして、「ALIVE」の時は「やがて何処かで 光は射すだろう」といわば待ちの姿勢だった主人公は、この曲では「虫けら」のように自ら「光の射す方へ」と向かっていきます。

WinnerなのかLoserなのか

さて、冒頭にあげた2人の記事で話題になっていたのが、サビ直前のひときわ盛り上がる部分で放たれるこの歌詞。

デキレースでもって 勝敗がついたって
拍手を送るべき ウィナーは存在しない

ミスチルは、デキレースで勝ったのか、負けたのか。ここに投影される自分は、ウィナーなのか、ルーザーなのか。

結論からいうと、私は多分その「両方だ」と思っています。

ここで当時の状況を振り返ると、1993年のCROSS ROADをきっかけにブレイクしたミスチルは、1994年のinnocent world、Tomorrow Never Knowsの大ヒットでその地位を確立します。

年末にはレコード大賞を受賞、特にTomorrow Never Knowsは発売翌年になっても長い間チャート上位に留まり続け、歴代のオリコンシングル売り上げランキングで6位(当時)に食い込みます。まだメンバー全員20代前半だった頃の話です。

この頃のミスチルの勢いはよく覚えています。同級生もみんなミスチルの話をしていて、もう世界中の誰もがミスチル大好きなんじゃないかと思えるほどでした。

ところが、「ヒットチャート」の頂点を極めたまさにそのタイミングで、彼らは「退屈なヒットチャート」に「ドロップキック」を入れ、レコード大賞受賞の5ヶ月後には「手にしたものを失う怖さに縛られるくらいなら勲章などいらない」と宣言します。

そこからは、一度頂点に立ってしまった人間ならではの苦悩や葛藤の時期がしばらく続きます。勝ったはずなのに、拍手を送れない。そんな「ウィナー」には、自分たち自身が投影されていたはずです。

でも私は同時に、この直前の歌詞にも注目したいのです。

(女性から合鍵をもらったけれど)
マスコミが恐いから 結局は
貯金箱の中にそいつをしまった

誰を信用して 何に奮闘して この先歩けばいい?

桜井さんは、この曲が発売される2年前、週刊誌に不倫を暴かれます。それまでチヤホヤされていたのが一転、ものすごいバッシングを受け、その直後のミスチル活動休止でも「解散説」がまことしやかに囁かれたりしました。

その辺りはこちらにも書いたので、良ければぜひ:

この「マスコミが恐い」「誰を信用すればいい?」というのは、そんなアップダウンを乗り越えて活動再開した翌年に放たれた言葉だったのです。

持ち上げられ、落とされた。「ウィナー」を経験したことで目標を見失いかけ、「ルーザー」を経験したことで不信感を募らせた。

「デキレース」のくだりは、その両方を経験したからこその叫びだったんじゃないかなと思うのです。

ミスチルは光の射す場所に辿り着けたのか

さて、光を射す方を目指して彷徨って漂っていた彼らは、その後そこに辿り着けたんでしょうか。

それについては、およそ20年後に発売されたこの曲が一つの答えを出していると思うので、ぜひ聞いてみてください。


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