遠回りでしかない人生の、歩み方。

回りくどい話は嫌いではない。
ただ、文章においては、書くときにシンプルに、すっと相手に伝わるようにしたいものだな、と思う。

文章はまだいい。読み返すことができるから。
ただ、喋っている場合はどうだろう。
あっというまに、何を言ったのか、言われたのかわからなくなってしまう。
そこでメモをとるんだぜ、という話も、ちょっと僕は疑っている。
すべてを音の速さでメモするなんて不可能である、ということ。
書くことは、そのまま素直に音を変換する営みとは言えないということ。
まだ、相手に言われたことをそのまま口に出す方がいい。
書くことは、正確に書き残すということが不可能である。
書いているうちに別のことを考えてしまう。すくなくとも僕は。
だからこうやって、一人で壁打ちのように毎日エッセーを濫造しても、へこたれることは決してない。
もちろん、なんどもなんども同じようなことを言ってしまっていることもある。それだけならまだしも、もしかしたらAと言っていたのにその真逆のBということを書いてしまっているかもしれない。
たった10分でも、1000文字でも次の日に読み直すと覚えていないものである。だから書く事は正確に行えない。だから書くことは大事だといえる。
AIが席巻しつつある昨今、僕はいつも大学の学部の歓迎会の時に、教授に言われたことを思い出す。君は将棋を指すのだな、AIができないことはなんだろうか(当時将棋のプロ棋士と将棋ソフトが戦うことが注目されていたからか)と聞かれた。少し前にそれを思い出して、愛がどうのこうの、とだじゃれに逃げたこともある。
ただ、今にして思えば、その当時から人間は間違うことができるということ、そしてこうやってふらふらと千鳥足で書き連ねることができるということが、人間にしかできない営みではないだろうか、と真正面から僕は言いたい。それを根拠づけているのはもちろんこの日々の実践である。

書いて、後悔して、消して、書き直して、もっと後悔する。
この営みはAIにできないと思う。その書き直した文章の結果だけを出力することはできるとは思う。むしろそれはAIの独壇場なのかもしれない。ただ、そこまで行きつく道のりというのは、遠回りにしかならない。なぜならば答えというものが見つかっていると思って進んでみたところ、実は答えはここではないもっと遠くにある、ということがようやくわかる。最初から最後の文章がわかっていて書き始めているわけではないのである。

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