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【小説】少年とクジラ(1/1話)


 ある少年が、一頭のクジラに出会った。
 月光の欠片が海面をきらきらと漂う、静かな夜だった。

 少年は真っ暗な海底のような表情をしていた。
 クジラのほうも、月のように穏やかな瞳で少年を見つめていた。

 少年が口を開いた。
「人間の世界はつまらない。窮屈で、貧しくて」
 少年の言葉が泡になって上っていく。
「もう、嫌になったんだ」
 少年は、目を伏せうつむく。

「あなたは何もかも知っているんでしょう?僕に教えてください。ほんの、少しでもいいから」
 少年は、うまく息ができないようだった。

 そんな少年の様子をみて、クジラは一度まばたきをし、答えた。

「わたしたちは、何も知らないよ」
 彼らの声は、遥か遠くまで真っ直ぐに届く。
 クジラは続ける。

「どれほどの生き物がこの海にいるのかも、なぜあんなに空が美しいのかも、どうして自分がここに存在しているのかも、わたしたちには分からないんだ」

 少年のためだけに向けられたその声は、少年の身体の中で反響し、増幅し、心を震わせた。

「しかし唯一、わたしたちも知っていることがある」
 クジラは少年に背を向け、ゆっくりと泳ぎ出す。
 少年はクジラの背中を目で追った。

「それはね、世界はわたしたちが思うよりもずっとずっと広く豊かで、精巧にできている。だから、それを支配して、捻じ曲げていいものなどどこにもいないということだよ」

 そう言い残すと、クジラは満月を突き刺すように、高く高くジャンプをした。
 少年は、クジラが作り出した波にのまれ、海中を転がっていった。

 次の瞬間、少年は砂浜へ打ち上げられていた。
 暖かな朝日が、少年の頬を橙色に染めている。

 少年はおもむろに立ち上がり、生まれたての太陽を、目を細めて眺めた。

「やっぱり、彼らは何もかも知っていたんだな」

 そう思いながら、眼前に広がる景色の美しさにいつまでもいつまでも、見惚れていた。

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