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【小説】ハッピーエンド(第一回あたらよ文学賞応募)


 第一回あたらよ文学賞に応募しました。
結果はニ次落選でしたが、嬉しい講評もいただけて、本当に参加してよかったです!

 以下、本文です。(約6700字)




         ◆◆◆
「カーペンターズって知ってるか?」
 私が訊ねた声が、薄暗い店内にふわりと浮かんだ。平日の夕方、行きつけの居酒屋は今日も私以外に客の姿はない。真冬の空は、すでにとっぷりと夜の闇に浸っている。
「知ってますよ。ずいぶん昔の歌手ですよね」
 頭に黒いバンダナを巻き、黒いエプロンをつけた青年が答える。この店のアルバイト店員だ。何をするでもなく、ただカウンターの向こう側に立って、私の話し相手になっている。
「じゃあ、Close to you も知ってるだろう」「ああ、知ってます。色男の歌ですよね。鳥たちを呼び寄せて星を降らせて、町中の女の子を振り向かせちゃうぐらいの」
「そうだ。あの歌の、女性バージョンなんだよ」
「誰がですか?」
「俺の奥さんがだよ」
「え?」
 青年が素っ頓狂な声を出す。おじさんの奥さんってどんな人なんすか。さっきそう訊いてきたのはお前の方だろうが。
「おじさんがそんな素敵な人と結婚できるんですか?」
「改めて言うな。自分がいちばん信じてねえよ」
 私は半ば自棄になって言い、グラスを持ち上げて芋のロックを一口すすった。
「そんな素敵な奥さんがいるなら、こんな時化た店で呑んでないで帰った方がいいんじゃないですか?」
 青年の歯に絹着せぬ物言いに、奥の厨房の店主がへらへらと笑う。店主のお前がそんなんだからこの店はいつまでも時化ているんだ、と説教がそこまで出かかったが飲み込んだ。
 代わりに、青年の質問に答える。
「いいんだよ、もう。彼女はこの世界にはいないんだから」
 飄々としていた青年の顔が、微かに曇る。
「そうだったんですね、すみません」
 私は「いいんだよ」と首を横に振った。
「体調が悪くなって病院に行った時にはもう手遅れで、余命宣告を受けた。もっと早く病院に連れていっていればって、後悔してばかりさ」
 一度話し出すと、堰を切ったように、これまでひとりで抱え込んできた思いが、胸の奥底から溢れ出してきた。
「彼女の遺体を焼いて骨と灰にして墓石の下に埋めた。毎月25日と盆と彼岸に墓に参る。仏壇には朝と晩、毎日だ」
 溢れ出した気持ちは、押し留めようとしてももう止まらなかった。
「でもそれが、なんだっていうんだ。そんな無機質な場所に彼女を閉じ込めて、なんの温度もない石に手を合わせてなんになる? あの世での幸せなんて祈りたくない。俺は彼女に生きていて欲しかった。彼女は庭の桜の木がとても好きだったのに、せめて、体のほんの一部でもいいから、その木の根元に埋めてやりたかった。そうすれば毎年桜の花が咲き誇るたびに、ああ、彼女はここで生きているんだなって思えるだろう。はったりでもなんでもいい、俺はそう思いたいんだよ……」
 私が思いの丈を吐き出し切ると、店の中になんとも言えない空気が漂う。また喋りすぎてしまった。これだから酒は良くない。良くないが、今は目の前にあるグラスを持ち上げることしかできない。
 居心地の悪い沈黙を破ったのは、青年の声だった。
「おじさんは、どうなりたいの」
 反射的に顔を上げると青年は、相変わらず、人生なんて分かりきっていておもしろくもなんともないんだ、とでも言いたげな表情のままで私を真っ直ぐに見ていた。
「どうって?」と訊き返す。
「おじさんが死んだあと、おじさんはどういう風に自分の体を葬って欲しいんですか」
 想定外の質問に、私は思わず手元のグラスを見つめた。しかし考えるまもなく、答えはすでに決まっていた。
「俺は、最後は海に流されるんだ」
「海、ですか」
「そうだ。海になって、雲になって風に乗って雨になって、また俺たちの庭に帰ってくるんだ」
 そうすれば、桜の木になった彼女にも会えるだろう。
「案外、ロマンチストなんですね」
 青年がからかうように笑う。こういうときばかり生き生きとした表情をしやがる。
「うるせえ」
 私はそう吐き捨てて、焼酎を飲み干した。
         ◆◆◆
「俺が協力しますよ」
 ある夜、青年が唐突に言った。「何に?」とは聞き返さなかった。
 私たちは人気のない浜辺にいた。あの居酒屋以外で会うのは初めてだった。街灯もなければ車通りもない所だ。私が手にしている懐中電灯だけが、青年の姿をかろうじて浮かび上がらせている。晴れているのに星も月も見えない、不思議な夜だった。
 青年はこの場所に、カヤックを二艘担いでやってきた。今は海の入り口に並べたそれを、何やら見たことのない道具で縦列に連結させている。「親戚がいらなくなったシーカヤックを持っていたんです。これで僕がおじさんを沖まで連れて行きますから、あとはご自由に」
「シーカヤックをもってる親戚がいる若者なんて今までの人生で聞いたことがないぞ」
「僕んち、シーカヤック一家なんです」
「そんな一家も聞いたことがない」
 私がぶつぶつ言っていると、青年は「世界は広いんですよ」といつもの感情が読み取りづらい顔で言った。作業を終えると、青年はあらためて私のほうを振り返る。
「どうします? 行くか、行かないか。最後の選択です」
 青年の瞳のなかで、懐中電灯の灯りが揺れていた。私はそれをしばらく眺めたあとで、後ろのカヤックに乗り込んだ。
 青年の漕ぐカヤックは穏やかな潮の流れにのって、スムーズに私を大海原へと連れ出した。
「おじさんは、海が好きなんですか?」
 青年の背中が訊ねてくる。私は「ああ」とだけ答えた。いつの間にか空に月が出ていた。海面を、銀色の月のかけらが漂っている。
「どうして?」
 ゆったりとした動作でパドルを動かしながら、青年はさらに訊ねてきた。私は月明かりにぼんやりと浮かぶ青年の後ろ姿を見つめながら、どうしてだろう、と考えた。
「考えたことがなかった」と正直に結論を口にする。「たぶん、海の向こうに広がる世界が、人間の住む世界とは全く違っているからだろう」
 青年が半分だけこちらを振り返る。
「つまりおじさんは、人間界よりも海にいるべきだって思うってこと?」
「まあ、そういう感覚に近いんだろう」
 ふうん、と言ったきり、青年は何も話さなくなった。パドルが海を切る音だけが淡々と響き、私はそれに耳を傾けながら夜に沈んだ水平線を探していた。
 やがて青年はカヤックを漕ぐ手を止めた。器用にバランスをとりながら立ち上がって身体の向きを変え、私が乗っているカヤックと彼のカヤックを切り離した。
 青年は涼やかな笑顔を浮かべて手を振り、今きた航路を帰って行った。私も、清々しい思いで彼に手を振った。いい別れ方だなと思った。
 それから私は、大海原の上をただひたすらに漂った。月のかけらを掬おうと海面に何度も手を伸ばし、それに飽きたらカヤックのうえで仰向けになって寝転んだ。こうしてじっと暗闇を見つめていると、時間の流れに取り残されていくような、この世界で存在しているものが私だけになってしまったような、心許なさに浸されていく。しかし何故かそのことに、どうしようもない安堵感を覚えている私もいた。
 ふと気がつくと、腹の上にネコがいた。ネコという名前の猫の、ネコだ。
「お前、どうしてこんなところに」
 私が驚いて訊ねるとネコは嬉しそうに、なあん、と大きく鳴いた。頭を撫でてやるとぐるぐる喉を鳴らす。
 我が家にネコを連れてきたのは、妻だった。
「わたしね、ずっと大きい動物が好きだなって思ってたの。ザトウクジラとか、アフリカゾウとかゴールデンレトリバーとか」
 ひどい雨の中河川敷に捨てられていた子猫だったネコは、彼女の腕のなかで小さく震えていた。
「猫は大きくない」と私は言った。
「そうだね」
「でもたぶんきみは、猫が好きだ」
「そうなんだよね」
「なんでだろう」
「なんでだろうね」
 私は妻と顔を見合わせ、笑った。
「あなたは、猫好き?」
「もちろん」
「ほんとに?」
「ああ。本当だ。少なくともこいつのことはもう好きになり始めてるよ」
「よかったね、もう、震えなくていいんだよ」
 妻はそう言って優しくネコの頬を撫でた。
 あれから永い年月が過ぎ、妻はいなくなって私とネコは随分と歳をとった。大丈夫、あの日からお前に対する愛情は変わっていない、むしろ、日に日に増している。そう伝えるとネコは、当然だろとでもいいたげな様子で、私の腹の上で丸まった。
 と、そのとき、私を載せていたカヤックが大きく揺れ、それまでとは比べ物にならない速度で流れ出した。慌てて上半身を起こし、暗闇に目を凝らして辺りの状況を確認する。さっきまでベタ凪だった海が、なぜかごおごおと音を立てて激しく波打っている。私は振り落とされないよう、四つん這いになってカヤックにしがみつく。それだけで精一杯だった。海飛沫が容赦なく顔面を叩き、ろくに目も開けていられない。辛うじて、手元にあったパドルを盾にして襲いかかってくる波を防ぐ。すると、カヤックの進行方向に広がる景色が、私の目に飛び込んできた。
 海が巨大な渦をつくっている。
 カヤックはその渦の中心に引き寄せられるように、わずかな躊躇いもなくぐんぐん進んでいく。そのうちに私たちは、大きな大きな流れのなかの一部分になった。
 気がつくと、私は砂浜の上で仰向けになっていた。身体のどこにも痛みはなく、気分が悪いということもない。が、首から下が金縛りにあったときのように一切動かない。どこか遠くの、私が存在すら知らなかった小さな島に漂着したのだろう。直感的にそう理解する。静かに揺れる海水が足元を浸している感覚がある。
 どうすることも出来ずに、ただそのまま呼吸を繰り返していると、私を上から覗き込む者がいた。じっと目を凝らし、その存在を見極める。
「お前、どうしちまったんだ、それ」
 そこにいたのは、ネコだった。
 しかし、よく見慣れたネコとは様子が違う。手も足も耳も牙も瞳も、ネコの全体が元の十倍くらいの大きさになっているのだ。
「猫というより獅子だな」
 ネコも海水を浴びたのか、ばたばたとダイナミックに身体を震わせた。
「いかすぞ、その姿も」
 そう言ってやるとネコは、私にぴったりと身体を寄せて寝そべった。満足げに顔を洗っている。
 しばらくネコの仕草を眺めていると、ふいに、私の頬をそっと撫でるような温もりを感じた。
 なんだろう。
 そう思い、何気なく空に視線を向けると、大きな満月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。それだけで思わず目を細めてしまうほどの光が、私とネコの上に届く。その慎しみ深くも荘厳な明るさに、雲さえも畏れをなして離れていく。やがて月の全体が濃紺の夜空に姿を現す。
 それを見た途端、頭の中の細胞が一斉にざわめき立つような、奇妙な感覚に襲われた。どこかで聞いたピアノの旋律、雨の気配に色めき立つ草と土の匂い、誰もいなくなった校舎の柱の手触り、石油ストーブの温もりを吸ったタオル、秋の始まりを運ぶ風。五感に染み渡った人生の記憶が、ひとかたまりの大きな濁流となって、心の一番深い場所を通り過ぎていく。
 やめてくれ、と叫びたくなる。そんなことをされたら、本当に、元に戻れなくなってしまう。
 泣きたくなった私の左腕をネコが、一心不乱に舐めていた。ネコにとってはいつも通りの愛情表現のひとつで、安心させようとしてくれているのだろうが、巨大になったネコの舌は、私の腕を撫でるたびに皮膚や肉を次々と削り取っていく。血も出なければ、痛みもない。ただ、私という存在が少しずつ減っていくだけだ。
 足元で揺れていたはずの海水は、すでに私の下半身を全て浸すくらいまでに満ちており、今か今かと私の喉元に忍び寄るときを待っている。
 そして、そんな世界のすべてを覆い隠し、溶かしてなかったことにしてしまおうとするように、暖かな月の光が、音もなく降り注いでいた。
「あなたも、月から来たんでしょう?」
 随分昔に聞いた、妻の声が耳に蘇ってくる。忘れもしない、彼女と初めて会話を交わしたときの声だ。彼女はあのとき、挨拶もそこそこにそんなことを言った。私たちは同じ職場で働く同僚だったが、そのときは顔見知り程度の仲でしかなかった。
「月?」
 戸惑う私を他所に、彼女は嬉々として「そう、月です」と話を続けた。
「月の重力って、地球の重力よりも、ずっとずっと小さいらしいんですよ」
「うん?」
「わたし、時々思うんですよね。周りのみんなはあんなに軽やかにすいすい生きているのに、どうしてわたしは違うんだろうって」
 正直、彼女がそんなことを考えているとは想像もしていなかった。職場にいる彼女は、与えられた仕事も人間関係も器量良くこなし、周囲の誰もに愛されているように見えていたからだ。黙って頷いた私に、彼女は続けて言った。
「だからわたしは、本当は月で生まれて、何らかの間違いで地球に来てしまったんじゃないかなって思うんです。月より大きい地球の重力に、いまだに慣れていないから、色々と下手くそなんだろうなって」
「なるほど。素敵な物語だと思う」
 私は毒にも薬にもならない返事をした。でも、本心だった。すると妻は「あなたも、そうですよね?」と私の目をまっすぐに見つめ、真面目な顔をして言った。変な子だな、と思った。
「どうしてそう思う?」
 私が聞き返すと、今度は妻の方が面食らったような顔をして、「どうしてだろう」と考え込んでしまった。結局、「なんとなく、見てたら分かりますよ」と笑った。
 まったく無邪気な彼女の様子を見て、私はそれまで見てきたものや経験してきたものの枠に収まらない何か、とても重要なものが、私の中に吹き込んできたのを感じた。その瞬間から私は、彼女の虜になってしまったのだ。
 あのとき彼女から受け取ったものと同じものが、今、夜空に浮かんだ満月の光に溶け込んでいた。
 もう、終わりなんだな。そう思った。不思議と、怖くはなかった。
 そばにはネコがいて、海があって、月が輝いている。
 ああ、こうやって、私の好きなものときみの好きなものに侵食されて、消えていく。何もなかったころの状態に戻っていく。こんな最後を、私はずっと望んでいたのではないだろうか。これが幸せというものなのではないだろうか。
 きみに、もう一度だけでいいから会いたい。
 離れ離れになってからずっと抱き続けていた願いが、今この瞬間に叶ったような気がした。
 胸に溢れ出す歓びを噛み締めていると、突然海の方から強い風が巻き起こった。それと同時に何か白っぽくて細かいものが無数に舞い上がり、視界を奪う。雪、だろうか。いや、違う、これは……。
 すまない。君の大好きなもの、肝心なひとつが抜けていたよ。
 月光を浴びてきらめく桜吹雪に囲まれながら、私は心の中で呟いた。
         ◆◆◆
「あれ、おじさん、今日は寄っていってくれないんですか」
 行きつけの居酒屋の前を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、アルバイトの青年がちょうど出勤してきたところだった。
「ああ。ネコが待っているんでな」
「ねこ?」
「そうだ。ネコという名前の猫の、ネコだ」
「へえ。おじさん、猫なんて飼ってたんですね」
「まあな。じゃあ、そういうことだから」
 私は青年に背を向け、歩き出した。と、すぐに用事を思い出して立ち止まった。青年に聞いておきたいことがあったのだ。
「そういえば」と呟いて振り返ると、店に入ろうとしていた青年も動きをとめてこちらを向いた。
「青年、シーカヤックって知ってるか?」
 青年は急な問いかけに、例の表情の読み取りづらい顔でじっと私を見たあとで、首を傾げた。
「見たことも、触ったこともないですね」
 私は足元に視線を落としながらニ、三度頷き、「そうか」と言った。
 再び青年に背を向け、歩き出す。と、今度は青年が私を呼び止めた。身体の向きを変えようとすると、「ああ、動かないでください」と止められる。何事かとそのままの格好で待っていると、彼の手が軽く肩の辺りに触れる感覚があった。
「もう、いいですよ」
 そう言われて振り返ると、青年は右手の人差し指と親指でつまんだそれを、私の目の前にかざすようにした。
「桜の花びらなんて、どこで付けて来たんですか」
 私は驚いて目を丸くした。それから、自然と笑みがこぼれる。
「案外、春はもうすぐそこまで来てるのかもしれんな」
 私が言うと、青年は「ふうん」と気のない返事をして、花びらをつまんでいた指を離した。風に乗って、花びらは高く高く舞い上がっていく。
 私と青年は、自由になって飛び去っていく桜を、その姿が見えなくなるまでずっと見守っていた。

(了)

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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