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【小説】月の糸(第4話)


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    ◆

「おいしいもの食べてきた?」
 一週間ほどの自宅療養を終え再び病棟を訪れると、ベテラン看護師の近藤さんが迎えてくれた。
 病室へ向かいながら「ハンバーガーめちゃめちゃうまかったです」と智也が答えると、「そこはお母さんの手料理って言わないと、ねえ?」と付き添いの母親のほうを振り返った。「まったくねえ」と母が笑う。
 案内された四人部屋は、智也のほかに二人が入院していた。
 荷物の整理と着替えを終え、入院初日に必須のレントゲンや心電図検査を受けるために病棟を出る。病棟は建物の四階、検査部は二階だ。帰宅する母と一緒にエレベーターに乗り込み、二階に着いたところで別れた。
 検査を終えて戻ってくると、病室の中から話し声が漏れ聞こえていた。どちらも男性の声なので、同部屋の患者同士が話しているのだろう。扉越しでは話の内容までは聞き取れない。
 智也が扉をそっと開けると、声が言葉の輪郭をもって耳に届く。
「おい若造」
 窓側に二つ並んだスペースのうちの一方から濁声が飛んでくる。ベッドの間の仕切りはすべて閉められた状態なので、声の主がどんな姿をしているのかはわからない。
 智也は自分が話しかけられたものだと思い、「あ、え?」と口をぱくぱくさせた。が、その声は誰かの激しく咳き込む音にかき消された。濁声の主がいるベッドの斜向かいから聞こえてきたようだ。そこにいる彼が嘔吐しているということはすぐに分かった。智也は思わず眉をひそめる。不快感ではなく同情によってだ。きっと、抗がん剤の副作用だろう。
「大丈夫か、若造!」
 また濁声が飛んでくる。若造とは智也ではなくもう一人の入院患者に向けられた言葉のようだ。
 若造と呼ばれた男は少し荒い息をついたあとで、「うるせえよ、おっさん」と言い返した。
 なかなかの荒っぽい言い回しに、智也の心は微かに張り詰める。しかし、濁声の主は意に介さない様子でガハハと笑い、
「おい若造、やせ我慢してねえで吐き気止め追加してもらえって!」とおそらく余計な助言をする。
「吐いちまったほうが楽なんだよ、ほっとけ!」
 若造はやはりそう言い返し、また激しく咳き込む。続けてナースコールのスイッチを押す音がした。智也は何となく物音を立てないようにして、若造の向かいにある自分のベッドへ忍び込んだ。
 それからしばらくして、智也は点滴のカテーテルを挿入するために処置室へ呼び出された。寝台に仰向けになって処置が始まるのを待つ間、担当の看護師さんに訊ねてみる。
「四〇五号室のふたりって、どんな感じですか?」
 智也よりもひと回りぐらい年上のようにみえるその看護師さんは、
「あー、智也くん今回あの部屋なんだっけ? あそこの二人、いつも楽しそうに話してるんだよね」
 と何かの器具を準備しながら言う。
「え、でもさっき、喧嘩してるようにしか聞こえなかったんですけど」と智也は思わず反論する。
「そうそう。二人とも口調が荒いから一見すると険悪なのかなって心配になるんだけど、実は仲いいんだよね」
 へえ、と声を出すと喉仏が動いた。
「鷲田くんって、智也くんとけっこう歳が近いんじゃない?」と看護師さんが言う。
「鷲田さんって、若造?」と聞き返すと、看護師さんは「そうそう。彼、若造って呼ばれてるよね」と笑った。
「鷲田くんはけっこう話しやすいと思うよ。心が軽くて薄いって感じでさ」
 軽くて薄い、と智也は看護師さんの言葉を反芻する。褒めてるのかそうでないのかよくわからない表現だなと思う。
「ノートパソコンみたいですね。持ち運びに便利そう」と口に出すと、看護師さんは「なにそれ」と笑い、「これで高スペックだったら言うことないね。出身大学でも聞いてみようか」と言った。
 それから「あ、でも」と真面目な顔になり、「病室で二人がずーっと話してて嫌だとか、そういうことだったら遠慮せずにわたしたちに言っていいからね」と言ってくれた。
 結果的に、智也が看護師さんに部屋の変更を依頼するような事態にはならなかった。濁声の主が数日後に退院して行ったからだ。そのころ智也は吐き気の副作用でベッドに引きこもっていたため、濁声の主の姿をみることができずに終わってしまった。
 ようやく吐き気がおさまったころ、智也が自動販売機に向かおうとカーテンを開けると、病室の扉の横にある洗面台に若い男が立っていた。男は、黒いサマーニットの帽子に短パン、サッカーチームのレプリカユニフォームを身に着けていた。背中に特大の「4」を背負っている。
 この人が鷲田さんか、と考えていると鏡越しに目が合った。うがいをしようとしていたのか口いっぱいに水をふくんでいる。智也が会釈をして彼の横を通り過ぎようとすると、いきなり左肩をつかまれた。
 驚いて振り向くと、彼は智也の肩に手を置いたまま、一回、二回と口をゆすいだ。戸惑う智也を他所に、三回目に水を吐き出したところでやっと顔をあげ、「よお」と直接智也の目を見て言った。
 この状況で「よお」ってなんだと思いつつも、「どうも」と頭を下げることしかできない。
「鷲田さんですか?」と訊ねると、「いかにも。鷲田信太とは俺のことだ」と仰々しく頷く。
「君は誰?」
「尾崎です」
「尾崎。うん、いい名前だな。ロックだ」
 ロックと聞いて智也の頭は、施錠と石を経てロックンロールにたどり着く。たどり着いたところで何と答えればよいかはわからない。
「どこに行くんだ?」と、鷲田はようやく智也の肩から手を離す。「自販機です」と智也。
「おお、俺もちょうどそっちに行こうと思ってたんだ。せっかくだから一緒に行こうぜ。ちょっと待ってて」
 鷲田は一方的に言って自分のベッドに戻っていく。断る理由もないため素直に待っていると、鷲田はうがい用のコップを置いて洗濯物が入ったネットを持ってきた。
 点滴台を引きずりながら、二人でラウンジのほうを目指す。
「尾崎くんは今いくつなの?」
「ハタチです」
「へえ、ちょうど? それはちょうどだねー。ちょうどって顔してるもんねー、尾崎くん」
 鷲田は歌でも口ずさむかのように言う。智也は「はあ」と相槌を打った。鷲田のことを軽くて薄い、と言った看護師さんの真意が少しずつ分かってきた気がする。
「鷲田さんは、社会人ですか?」ととりあえず聞き返してみる。
鷲田は「うん、サラリーマン三年目」と言って人差し指と中指、親指を立てて見せる。
「やっぱ大変なんですか? 社会人って」
 智也の質問に鷲田は、「ここでゲロ吐いてるのと同じくらいか、それ以上にきついよ」と、けらけら笑いながら言った。
 智也がラウンジでオレンジジュースの売り切れた自動販売機とにらめっこをしている間、ランドリーに洗濯物を置いてきた鷲田は、椅子に腰をおろしてスマートフォンを操作していた。
 悩んだあげくにウーロン茶を手にし、智也が振り返ると、意図せずに鷲田のスマートフォンを覗き込むかたちになってしまった。ホーム画面の背景に、鷲田と寄り添う女性が写っていた。黙っているのも変だと思い、「それ、彼女さんですか?」と声をかける。「そうだよ」と鷲田は平然とした声で答える。智也は鷲田の隣に腰をかけた。
「どれくらい付き合ってるんですか?」
「再来月で丸五年だな」
「へえ。長いっすね」
「まあな。もうお互いに大人だし」
「……結婚とか考えてるんですか」
初対面で踏み込みすぎかと懸念しながらも、智也は訊ねてみた。鷲田はスマートフォンの画面を見たまま、「んー、どうだろうね」と相変わらず真剣みのない口調で言う。しかし智也は、その時だけ鷲田の頬に寂しさの色が差したのを見逃さなかった。
「病気のせい、ですか?」
 智也は手元のウーロン茶に視線を落とし、ほとんど独り言のように言った。それを聞いた鷲田は智也のほうに一瞥をくれたあとで、スマートフォンをポケットにしまった。そして、
「尾崎くんはさ、セイシとった?」
 と唐突に訊ねてくる。
一瞬なにを言われているのか分からなかったが、すぐに妊孕性保存治療のことだと見当がついた。抗がん剤治療を受けると、副作用によって卵巣や精巣などの機能がダメージを受け、子孫を残す能力が低下する場合がある。がんの治療を乗り越えた将来に、自分の子どもを授かる可能性を残すため、患者が希望すれば事前に卵子や精子などを保存する治療を受けることができる。智也も、治療が始まる前に主治医から説明を受けた。
鷲田は、その精子を保存する治療を受けたか、ということを聞きたいようだ。
「俺は、やらなかったです。あんまり、ぴんと来なくて」
 智也が答えると、鷲田は「俺も、彼女がいなかったらやらなかっただろうな」と呟いた。その横顔には、軽くて薄い鷲田はいなかった。
「彼女さんに、やってって言われたんですか?」
「いや、俺がひとりで決めたんだよ」
「そういうものですか」
「だって、将来にかかわる決断とか一緒にしたらさ、彼女の逃げ道がなくなっちゃうだろ。病気だっていうこともそうだけど、それ以外の部分も含めて、俺じゃない誰かを選ぶ余地はいつだって、あるべきなんだからさ」
 鷲田の言いたいことは、智也にもなんとなく理解できた。こちら側が病気を抱えているということだけで、相手が自分を恋人として思う以上の情がうまれてしまったら。その情が、罪悪感となってその人を縛り、別れを切り出すという選択肢を奪ってしまったら。それはきっと、フェアな関係とは言えない。自分の人間的な魅力の欠如を、病気によって穴埋めされているような気持ちにすらなってしまう。
「子どもが欲しいとか諦めるとか、それ以前に結婚するとかしないとか、急に目の前に突き付けられても無理だよなあ」
 鷲田は両手で目を擦りながら「今マジで、THE人生って感じ」と付け足した。「ほんと、そうですね」と智也はウーロン茶のパックにストローを挿した。
鷲田が顔を上げ、ゆっくりと瞬きをしながら智也に語りかける。
「この前まで、同じ部屋におっさんがいたろ」
「ああ、あの濁声の」と智也が答えると、「そう、あの無駄に声がでかい人な」と憎まれ口をたたく。
「あのおっさんはさ、五十代後半だったんだけど、末の子がまだ成人前だし長女の結婚式も控えてるから絶対に死ねないって言ってたんだ。そのちょっと前にいた別のおっちゃんは、子どもがまだ小学生だから死んでる場合じゃないって。どっちもちゃんと元気になって退院していったろ」
 鷲田はいったん言葉を区切り、空中を見つめる。
「当たり前かもしんねえけど、二人ともちゃんと現実的な未来のイメージを持ってて、地に足つけて踏ん張れてるっていうか。なんか俺、それがすげえ羨ましくてさ」
 そう言った鷲田はため息を吐くように笑った。
「わかります」と智也はウーロン茶をすする。
 進学、就職、結婚に子育て。智也や鷲田のような若い患者の眼前には、これからやってくるであろう人生の大きな選択肢を吟味する前に、もっと根本的な分かれ道がある。生きるか死ぬか、だ。そもそもこの二者択一をどうにかすることのほうが現実的で、それに手一杯であるのに、具体的なイメージのつかない未来についての決断を迫られても、何もかもが雲をつかむような話にしか聞こえない。少なくとも智也にとって、遠い未来について考えることは、重荷になることはあっても治療を乗り越えるための糧にはなり難い。鷲田もきっと同じような状況なのだろう。
「こんな身体じゃなきゃ、俺だってプロポーズくらいいくらでもしてやるのにな」
 鷲田が元の軽い調子に戻って言う。
「プロポーズって、そんなに節操なくするもんじゃないと思いますよ。したことないからわかんないですけど」
智也がそう応じると、鷲田は「そうか?」ととぼけて笑っていた。
「洗濯終わるにはまだかかるし、部屋戻るか」
そう言って鷲田が立ち上がったので、続いて智也も席を立った。だらだらとした足取りで先を行く背中に、「鷲田さん」と智也は呼びかける。頭のなかにはスマートフォンの画面に映っていた、鷲田と恋人の幸せそうな笑顔が浮かんでいた。鷲田は「んー?」と声だけで返事をする。
「たぶん、逃げ道なんかなくても、逃げる人は自分から逃げていくと思うんですよ。だから別に、鷲田さんから用意してあげる必要はないんじゃないですか」
 鷲田は何も答えず前を向いたまま歩いて行く。二人の足音と、点滴台の滑車の回る音がリズムよく響く。
「鷲田さん自身の分は、どうか知りませんけど」
 智也はぽつりと付け足す。
すると鷲田は半分だけ後ろを振り返り、わざとらしく顔をしかめた。
「最後の一言はクリティカルだ、痛えよ」
 そう言うと、自分の胸のあたりを親指でさしていた。
 病室に着き、それぞれのベッドに戻っていく直前、智也はふと思い出して訊ねた。
「鷲田さんって、出身大学どこですか?」
 鷲田は「あ?」と振り返り、「なんかそれ、前に看護師さんにも聞かれたな。流行ってんのか?」と聞き返してくる。
 先を越されたか、と智也は心のなかで舌を鳴らす。純粋に不思議がっている鷲田を無視して、「いや、別に何でもないっすよ」と仕切りのカーテンを閉めた。

    ◆

 その日、智也は輸血を受けていた。
抗がん剤の副作用で減少した赤血球あるいは血小板を補うため、一クールに数回行われるものだ。
 ベッドに横になり、点滴台に下げられた赤血球のパックのケチャップのような色をぼんやりと眺めていると、枕元に置いていたスマートフォンが震えた。点滴を繋いでいないほうの腕を伸ばし、スマートフォンの画面をつける。
〈ワシダシンタさんからあなたのワールドにメッセージが届きました〉
 ブルーアスターからの通知だった。
 智也は一瞬迷ったあとでバナーをタップする。プライベートワールドの画面が立ち上がったところで、右下のメッセージボックスを開く。
〈羨ましいだろ〉
 その一言とともにラーメンの画像が送られてきていた。
 鷲田は現在一時退院中で、実家に帰っている。退院の前日に連絡先を交換しようと持ち掛けられたため、智也が「ブルーアスター以外なら」と応じると、「ブルーアスターをやってない二十代がいてたまるか」という謎の理論で半ば強引にアカウントを作らされた。
 智也はあらためて送られてきた画像を見る。上品などんぶりに琥珀色のスープが注がれ、その奥にちぢれた麺が鎮座している。そこに薄いチャーシューとメンマ、煮卵、焼きのりが行儀よく並ぶ。智也は思わず唾をのんだ。約一か月間病院食ばかり食べている人間にとって、手の届かないラーメンを見せつけられることほど、精神的苦痛を味わうことはない。
〈そんなものに心乱されたりしませんからね、俺は〉
 智也は辛うじてそう鷲田に送りつけたが、輸血が終わるとすぐに病院内のコンビニへカップラーメンを買いに行った。
 帰りに給湯器を使おうと立ち寄ったラウンジで、テーブルの上に何かが置き去りにされているのを発見した。近づいて見てみると、一輪の小ぶりなひまわりだった。見舞いに来た誰かが落としたものだろう。ラウンジには智也ひとりしかおらず、静寂に満ちた飾り気のない空間のなかで、その花の黄色は寂しく存在感を放っていた。拾い上げようとして触れると、それは造花だった。
 智也は手にした花を、意味もなく窓の光にかざしてみる。少し透き通った花びらを見ながら、なんとなく華菜子のことを思い出していた。
 ブルーアスターの、彼女のワールドには訪れていなかった。そもそもブルーアスターを始めるつもりがなかったし、彼女と最後に会ってからそれなりに時間が経ってしまったため、完全に機会を逸していた。しかし、それはそれで別に構わないと思っていた。
 智也は手にしていた花をそっとテーブルの上に戻して、お湯をこぼさないようそろそろとラウンジをあとにした。

鷲田が病棟に戻ってくるのと同じ日に、智也は二回目の一時退院を迎えた。
仕事を休んで来た母に手伝ってもらいながら、荷物を運び出す準備をする。廊下ですれ違った鷲田が、「俺も帰りてえ」と憂鬱を吐き出していた。
 実家の庭ではキンモクセイが花をつけ、秋の始まりを香らせていた。
 夕方になると、仕事から帰ってきた父がいつもの通り晩酌を始めた。母が作った料理を食卓へ運びながら、智也はふと気が付く。
「父ちゃんが飲んでるビール、いつものと違くない?」
 母は煮物を器によそいながら、「ああ、あれ、ノンアルコールのやつよ」と答える。智也は驚いて「へえ」と声を漏らした。智也の知る限り、父といえば休刊日のきの字も知らない人間だったはずだ。
「あんたに何かあったときにすぐに車が出せるようにって、最近はあればっかりよ」
 母の言葉に、智也は少し複雑な気持ちになる。純粋に父親の気持ちをありがたく思う反面、自分のせいで家族に我慢を強いているという後ろめたさを覚える。そんな智也の様子を鋭く感じ取った母が、「ちがうのよ」と手をひらひらさせる。
「きっとね、願掛けみたいなもんなの。なにかせずにはいられないのよ。親とか家族ってそういうもんなのね」
 はい、これも持って行って、と母は煮物の入った器を智也に手渡す。智也は煮物の重さと暖かさを感じながら、それを食卓まで運んだ。そのまま父の向かい側に腰をおろす。
「それ、うまいの?」とビールを指さして父に訊ねる。
「最近のノンアルは進化してるんだよ」
 父はミックスナッツの載った皿からクルミだけをつまみあげながら言う。智也も皿に手を伸ばしてカシューナッツだけを拾いながら、「別に、アルコール入ってるやつ飲めばいいのに」と伝える。
「んー? いいんだよ。そんなの、どっちでも」
 父は完全に仕事スイッチオフのリラックスモードに突入しており、目尻がさがって口調もゆったりとしている。顔が赤くなっていないこと以外は、確かにアルコール入りのビールを飲んでいるときと変わらないのかもしれない。
 父がクルミを噛み潰しながら脈絡もなくつぶやく。
「ほんとさ、みんな毎日能天気に暮らしてるよな」
「みんなって?」と智也が訊くと、「うーん、強いて言うなら、世間のみんなってとこだな」とグラスに口をつける。
「まあ、俺だって、智也が病気になるまではそうだったからな。どっかの誰かが抱えてる苦痛のことなんてすっかり忘れて、のんきに生きてたもんな」
 智也はカシューナッツをひとつずつ半分に割りながら、父の緩慢な声に耳を傾けていた。
「そんなの、いちいち気にしてたら生きていけないって」
 智也がそう言うと、父は「そうかー」と反論とも納得ともつかない反応をする。
「入院してる人たちだって、みんなが思ってるよりも意外と明るいかもしれないよ」
 智也は、鷲田や鷲田と仲のよかったおっさんのことを思い出しながら言った。実際に、鷲田と出会ってからの約一か月で幾度となく起こった、彼の豪快さがわかるエピソードを話して聞かせると父も愉快そうに笑っていた。
「だからさ、そんなに心配しすぎなくていいんだよ」
 智也が最後に付け足すと、今度は「そうか」と納得したように頷いた。


第5話へ続く

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