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ノーマスクの世界は情報量が多い、と思った日

来週3月13日から「原則としてマスクの着用を推奨することはせず、個人の判断に委ねる」となりました。

その日まで、あと数日となったある日。
久しぶりに出社しました。

すでに、街中や電車内でマスクをしていない方をちらほら見かけます。

うんうん、来週からはこんな風にノーマスクの人が増えるのね。

と、思いながら駅のホームを歩いているとき…ふと、
そうか、今すれ違っている人たちがみんな顔丸出しになる可能性があるのか。
と、思ったら内心ちょっと怯えました。

な、なんか…情報量が一気に増えすぎる!!

と、思ったからです。

マスク顔は、良くも悪くも誰の顔も
のっぺり(=表情がよくわからない)
とさせ、その人の個性を薄れさせます。

そのため、受ける情報量が少なくなったことで、コロナ禍になってからは、人混みや通勤電車が少し楽だったことに気がつきました。

ノーマスクの世界にもどるのは、たとえるなら、これまではあまり装飾のないティッシュや洗剤などを家に置いていたのに、いきなり、
「○パーセント増量! 消臭力アップ!」
などと書いてあるにぎやかなパッケージの商品をズラリと並べるようになったようなイメージかもしれません。

モノも主張しますが、顔はもっといろいろなことを主張してきます…。
自分に関係なくても、「不機嫌」「疲れてる」「イライラ」などなど。

この約3年、周りの人との間にマスクという「薄い壁」を挟むことで、自分をどこか守れているような気持ちになっていたことにも気がつきました。

たとえば朝の満員電車の中では、みんな疲れていたり、ちょっとイライラしやすかったりします。
ですが、半顔しか見えないことで、周りの人の気配や表情などから発せられる感情、意志などがダイレクトに伝わりにくくなるように感じていました。 

自分だけでなく、周りの人たちがマスクをしていることでもなんだか安心感があったのです。

とりあえず、花粉症のわたしは来週以降も外出時にはマスクをする予定なのですが…果たしていきなり(おそらく)大人数のノーマスク顔を見ることに耐えられるのか…少し不安になりました。


一度隠したものをまたオープンにするのは、する側もですが、される側にとっても心理的なハードルが少しだけ高いです。

マスクをしていない人が多い世界にいきなり復帰するのは、わたしにとってはまるで43度くらいの熱いお風呂に入るくらい刺激が強いと感じます。
かけ湯? をするように、少しずつもどっていきたいな、と思いました。