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コネコとシイナさん、熱海のうろんな温泉にゆく【第2話】 #コネコビト

この山猫峠という宿は、かつてはもっと山の方にあって商人向けの旅籠を営んでいた当時の主人が、熱海にうろんの落ちる良い湯が湧いたと聞いて買い上げて旅館とし、やがて山の旅籠の方は引き払って一族で熱海に移住してきた、ということだそうです。
泉質は熱海の他の湯に比べるとどろりと濁り、源泉は熱すぎるので掛け流しではなく適宜加水しているものの、それでも十分に熱海の温泉特有の潮っぽい匂いは、浴場の外まで溢れてきます。
「この旅館のお湯は、うろんによく効くのにゃ。シイナさんにぴったりだと思ったにゃ」「へえ」
旅館山猫峠の浴場は、大浴場とは言えないまでも大人が数人足を伸ばして入れるほどの広さです。
「露天もあるのにゃ」
今日は他の宿泊客の予約が入っていないため貸切とのこと。  
足先から入ると湯温は適温で熱すぎずぬるすぎず、やや濁ったとろみのある湯につつまれると、全身の毛穴から日頃の疲れや悩み、うろんなどが流れ出ていくような気持ちです。「うーっ、きくなあ…」
浴槽の真ん中でシイナさんが手足を伸ばしていると、からり、と戸が開く音がしました。  
「うーろろん」
うろろんです。気持ちよさそうにお湯に浸かっています。
「この温泉はうろろんにも人気なのにゃ」
「へえ」
「ニンゲンから出たうろんがたくさん含まれた名湯なんだそうにゃ」
「それって…」
ニンゲンは出汁、なのでは。とシイナさんは思いましたが口には出しませんでした。  
うろんな人が噂を聞きつけてやって来て山猫峠の温泉に浸かり、そのうろんを求めて近隣のうろろんが集まり、ということなんだそうです。
「お猿だってお山では温泉に浸かるらしいにゃ。いっしょにゃ」
いっしょなのか…?
うろろんはお湯から出る時、入浴前より少し膨らんでいました。  
普通のうろろんは、うろんをある程度吸い込むと分裂していくのですが、この温泉のうろろんは泉質のせいなのかどうか、お湯に浸かって膨れてもそのままなのだそうです。
「ここから離れたらまたしぼむのにゃ」
そう言われてみると、廊下ですれ違ううろろんたちも、総じて平均サイズよりやや大きめです。  
「じゃあ、ずっとここにいたらきっとものすごく大きなうろろんになるんだね」
部屋に戻って畳に転がりながら、シイナさんは呟きます。そうしてビールを今飲むか晩酌まで待つか悩んでいるのです。
「ポットに熱いほうじ茶があるから飲むといいにゃ。風呂上がりにアルコールは良くないにゃ」  
言われた通り、備え付けのポットから湯飲みにほうじ茶を注ぎます。
「コネコのもにゃ」
香ばしい香りが和室に広がります。
「あつ」
「猫舌向きじゃないのにゃ」
コネコはちゃぶ台に湯呑みを置いて、ふうふうと息を吹きかけます。
「そういえば、いるらしいにゃ」
「何?」
「大きなうろろん、にゃ」  
「どのくらい大きいの?」
「とにかく大きいらしいのにゃ。このお宿ができた時から、いや、話によってはそれより昔から、ここに集まるうろんを吸い続けているらしいにゃ…」
なんだか話が怪談じみてきました。西陽の強い部屋で、陽の落とす陰が少し動くように思うのは気のせいでしょうか。  
すす、と滑らかに襖が開き、いっぴきの、あまり大きくないうろろんがいました。
「お夕飯は干物とご飯しかないみたいにゃ」
食事もほぼすべてうろろんが用意しているので、炊いた無洗米とセルフサービスの干物と、できたての温泉卵くらいしかないとのこと。
「うーん、食べに出る?」
「コネコ、おさしみとかアジフライとか、熱海ならではのものを食べたいにゃ」
「ならではねえ」
「熱海プリンっていうのも気になるにゃ」  
山猫峠の建物は斜面に沿うように建っているので、駅から来た時には平屋のように見えるのですが、下に向かって何層も階段や廊下で繋がった部屋があるのです。
「とりあえず海の方行くにゃ」
コネコを追って脇の細い坂道を下り、ふと後ろを振り返ると、窓ごとふわんと光る建物が見えました。  
光は呼吸するように強くなり、弱くなり。太陽が沈んでいくので、徐々に強まっていくようにもみえました。
ぼやんとした光は蛍光グリーンみたいで、電車の中で夢に見たような。「シイナさーん!早く来るにゃあ。迷子になるにゃー」
コネコの声を聞いてシイナさんは慌てて坂を駆け下ります。  

おもに日々の角ハイボール(濃い目)代の足しになります