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パターンについて考える

なんとなくユングと東洋思想というか、要は易なんだろうなぁと思いながらつらつらと資料をひっくり返している。
そもそも、6月中に12月の公演の内容が必要とか言われるので、夏の公演向けの台本を書き終わってすぐに、12月用の台本を書き始めたのが運の尽きというか、ネタ自体はあったので三分の一ほどがあれよあれよとできてしまい、概ね書くことも整ったところで、何か思いもよらぬ要素でもないかと期待して、易に頼って失敗したのが運の尽き。
ここまでが先週ぐらい。どう失敗したのかは割愛というか、そもそも問いの建て方を誤って、まだ書いていない部分の要素のメモ的なものがそのまま卦に出てしまった。
そんなこんなで、ちょっと目が向いた感じもあるので、今まであまり顧みてこなかったユングでも読もうかということになった次第。

時々行く町中華で「たまに良くあること」というのに出くわす、こんな様子。
その店に入ってオーダーすると、お決まりの三人組がやってきて、「腹減った」「食いまくるぞ」などといいながら、結局三人ともいつもと同じ料理と餃子を一人前オーダーするのだ。
三人はオーダー前に一応、何かを選んでいる様子もある。餃子をシェアする相談もしている。だが、結局は三人揃っていつも同じ料理をオーダーし、概ね釣りの話しと、共通の友人についての話題を話している。
これにまたしても出くわして、一緒に店に行って、同じくまただなぁと思っていたツレと「よく彼らを見かけるけれども……」という話しになった。
ツレとしては「彼らの方が恐らくは我々以上の頻度でこの店を利用しており、注文はバラバラなこともあるだろうし、なんとなくローテーションもしている」という健全な見立て。

マイルドヤンキーなんてものは、概ねそんなものだということではなく、本当に彼らは、どのくらいの頻度でこの店を利用しているのだろうか、その際には他の料理をオーダーしているのだろうか。それとも毎度同じものを食べているのだろうか。あの会話は形骸化したお約束の応酬でなく、本当に彼らは思考しているのだとうか。我々はどの程度の確率でこの遭遇を繰り返しているのだろうか。

さてこれを偶然性ではなく、規則性の方に目を向けて、この中華屋に行こうと思った自分の欲求と選択から導かれる現象として、この三人が同じものを選ぶ光景というのが必ずついて回る様な、ユング色の濃い世界でいろいろ考えるとするならどうだろうかと思うのだけれど、なんせ今のところはそこまで思い巡らせるのがやっとで、なにひとつ導き出せないまま、改めてユングを読みながら、こんな時は吉野裕子先生だったか?と、なんとなく新シリーズかと思っていたのに、なんやかんやでいつかきた道というか、連想なんてそんなもので、なかなかパターンから抜けるというのは難しいものだなぁと考えた次第。並行して東洋思想のおさらいもして、抜けられないなら掘ればいいという理屈でいけば、ひょっとしてということもあるだろうか。

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