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大概のことって大丈夫

今回は、前回の記事↓

↑ のスピンオフのようなもの。


僕は基本、「大概のことって大丈夫」だと思っている。

「大概のことは大丈夫じゃない」と感じている人は、
大丈夫じゃないことに目が行きがちだから、
大丈夫じゃないことが大半であるように見えるだけなんじゃないか?
―そう思っていた。

ただ一方で、
「大概のことは大丈夫じゃない」と感じている人は
先回りして大丈夫じゃない景色に対処してくれている人かも知れないと、ふと思った。

僕は「大概のことって大丈夫」と思っている。
そしてそれは、僕の周りの人が先回りして大丈夫なようにした状態を僕に見えるようにしてくれているだけとも言える。
実は僕がその景色を見るときにはもう大丈夫になっているだけ。
僕は大丈夫じゃない状態は見ていない。
―だとしたらかなり僕はおめでたいやつだ。

先回りして「大丈夫じゃない」状態を常に見ている人のことは
僕にはわからない。
どんな気持ちでいるのか、想像するに余りある。

つまるところ、
"自分以外の人"のことはどうしたってわからないものだ。
共感や共鳴はしても、それはどうしたって主語は"自分"だ。
"その人"を主語にした動作ではない。
"その人"の気持ちはわからない。

先回りして「大丈夫じゃない」状態を常に見ている人に負担をかけているかも…
とも想像する。そういう側面もあるとは思う。

そこは弁解の余地はない。
負担をかけている人たちには
ただただ
ありがとうございます。
と伝えたい。

しかし一度立ち止まって問うてみる。
もう少しシンプルにしてもいいんじゃない?
って。


僕にも世界は「大丈夫じゃないことだらけ」だと思ってたときがあった。
でもその考え方では人生ガス欠することに気付いた。
僕個人のキャパの問題だけど、
死ぬまで全速力は僕には無理だ。

コロナ禍とかイロイロも相まって、
「省エネしよう」
そう思った。

その結果
「大概のことって大丈夫」と考えるようになった。

自分をシンプルにして
自分の周りの環境をシンプルにして
自分の生き方がシンプルに楽になる。
「大概のことって大丈夫」と考える。

今が生きづらい人は
人の心配よりまず自分を大切にしてほしい。

自分が元気であれば周りにもいい影響を与えられるはず。

先回りして大概の「大丈夫じゃない」ことに向き合ってくれてる人たちには、
改めて心からありがとうを伝えたい。


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